小田原の立地条件と町の構造
歌川広重の東海道五十三次における小田原宿は、酒匂川の渡河風景を俯瞰的に描いています。遠くに駒ヶ岳を始めとする箱根の険しい山々を望み、その麓には小田原城と宿場町の屋根並みが垣間見える、広々とした風景の描写が印象的です。
この構図は小田原の立地特性をとても良く表しています。
歌川広重 東海道五十三次 「小田原宿」
小田原は、天下の険とよばれた箱根の入口にあります
品川宿から数えて9番目の宿場である小田原宿を抜けると、東海道は西川沿いを箱根湯本に向かい箱根峠を目指します。
小田原城は箱根山から延びる丘陵地の先端部に位置し、その麓の城下町は、富士山、丹沢山地、箱根山系を水源とする酒匂川がつくる足柄平野の三角州上に広がっています。
広重は小田原の立地条件を的確に把握して自らの絵に表現したようです。
小田原は関東の西端に位置し、古くからの交通要所で関東防衛の拠点となった場所でもありました。戦国時代には北条氏が巨大城郭を築き、秀吉により攻め滅ぼされるまで、ここから関東一円に睨みを利かせていたことは既に述べました。
現在でも、小田原駅は新幹線、東海道本線、小田急線、箱根登山鉄道などの結節点にあたり、箱根観光の拠点ともなっています。
小田原城の堀切土塁の名残
北条氏康が本丸を現位置に移すまで、小田原城本丸は八幡山(現 小田原高校付近)にありましたが、北条氏の勢力拡大に伴い城郭も大きく広がリ、最盛期には、周囲9km余りにわたり土塁と空堀で取り囲む総構えをもつにいたりました。
その時代の大外郭の頂点に位置する小峰御鐘の台からは、幾つもの尾根筋が分かれて平野部に延びており、その内の一つ八幡山尾根筋の先端に現在の小田原城本丸があります。
左:八幡山尾根からみた天守 右:小田原城天守閣
東海道本線と新幹線の線路が尾根筋を分断している
もう一度、明治19年の地形図を見てみます。
小田原城の背後にある丘陵地にはいくつもの尾根と谷がみられ、そのうちの一つの尾根の先端に本丸が位置していました。
また、地形図には北条氏時代の大外郭を形成した堀切がくっきりと描かれていて、明治中期には、町中の各所に堀切と土塁が現存していたことが分かります。
また、東海道(現 国道1号線)と甲府道(現 国際通り、銀座通り)は、城郭の丘陵地を迂回するように城下町を貫通していました
八幡山付近を歩いていると面白いことに気づきます。
道路から見ると崖地が多い急傾斜地だと感じるのですが、丘陵地内には小田原高校、明徳学園、陸上競技場、競輪場、城山公園など、広い平地がたくさん存在しており、この丘陵地は広い尾根と谷地をもつ独特の地形をしていることが分かります。
戦国時代、この地には数多くの曲輪が設けられていましたが、山上の巨大城郭を構築するのにとても適した場所なのかもしれません。
小田原城天守からみた八幡山 緩やかな丘陵地には緑の中に大きな建物が散在する
左:切立った崖地と明徳学園校舎 右:広い競輪場敷地の向う遠くに天守が望める
北条氏時代の総構えを成していた空堀と土塁は、その巨大さ故に多くが江戸初期に破壊され、残ったものも近代の市街化によって次々と姿を消しましたが、現在でも幾つかの空堀と土塁が丘陵地の中に残っています。
その最も大きなものが小峯御鐘ノ台の大堀切とよばれる空掘跡です。
この空堀は本丸へと続く八幡山尾根筋を分断し 敵の攻撃を防御するために北条氏時代の末期に構築されたもので、現地には幅20〜30mの凹地と土手がおおよそ250mにわたって現存し、深さは両側に盛られた土塁の高さも加わり10m前後にもなる場所もあります。
城山公園内に残る大堀切跡
丘陵地の空堀だけでなく、市街地にもかつての曲輪を形作っていた土塁の名残がみられます。
二の丸の藤棚観光案内所前の駐車場にも小ぶりながら土塁が残っています。
かつての馬出曲輪の土塁が50〜60mの長さで現存していて、堀が埋め立てられて駐車場となっています。
栄町一丁目にある幸田口門跡には旧三の丸の土塁が残っています。
小田原郵便局の裏からお堀端通りまで、高さ2〜3mの土塁が150m以上に渡り現存し、通りには説明看板があり横では幸田口門の発掘調査が行われていました。
二の丸跡に残る馬出曲輪の土塁跡
幸田口門跡に残る旧三の丸の土塁 右写真の駐車場が堀跡にあたる
小田原城郭の復元
小田原城跡では城郭の復元が進められています。
大手口跡に建つ鐘楼(本体は後世の移築)の石組の一部が江戸期の遺構だそうですが、明治初期に天守を始めとする城郭内の建物が一斉に取り壊されたため、小田原城にはこれ以外に江戸期の遺構が殆ど残っていません。
明治3年に天守が 明治5年には銅門などが解体され、この時点で小田原城の建造物は殆どが失われたようです。その後、陸軍や宮内庁など所有者が転々と移り代わり、明治34年から昭和5年には御用邸が建てらますが、関東大震災により大破して閉鎖されています。
明治19年の地形図をみると、当時、お堀端通り前の二の丸堀は残っていたようですが、今では対岸の二の丸の土塀、銅門や馬出門が復元され、天守閣と並んで城下町小田原を代表する景観を見せてくれます。
お堀端通り前の二の丸堀 正面に二の丸平櫓と馬出門がみえる
昭和9年、関東大震災で倒壊した二の丸平櫓が復元されたことで、城跡の復元に向けた動きが始まります。
この平櫓は江戸時代の姿とはだいぶかけ離れているようですが、小田原城が城の姿を取り戻す第一歩となりました。
昭和13年には小田原城跡の一部が国指定史跡となり、昭和24年から28年にかけて天守代の石垣の積みなおしが行われ、昭和35年には天守閣が再建されています。
その後、昭和46年には本丸正門にあたる常盤木門が、平成2年には住吉橋が、平成9年には二の丸正門にあたる銅門が、そして昨年は馬出門が復元されました。
左:復元された銅門 右:本丸正面の常盤木門
左:天守閣 雨にもかかわらず多くの観光客が訪れる 右:大手口跡に建つ鐘楼と石組
小田原は箱根の観光拠点といわれますが、拠点というより乗継地のように感じました。
雨天にも関わらず城内には沢山の観光客がいましたが、駅周辺に旅館やホテルは殆どなく、箱根に行く前に小田原城にチョイと立ち寄り、宿泊は箱根か熱海で、という観光客が多いように思いました。
立ち寄った観光客を、如何に長く滞在してもらえるか、これが小田原の街づくりの鍵だと思います。
そして、その鍵を握っているのが小田原城の復興なのかも知れません。
東海道宿場町の町並み
かつての東海道は相模湾沿いの海岸砂丘の尾根筋を通っていました。
鳥取、新潟、庄内など日本海沿いの平野には大きな海岸砂丘が見られますが、相模湾にも見られ海岸線に沿って砂丘地形が確認できます。
駿河湾沿いの沼津から田子の浦にもそれは見られ、旧東海道(旧国道1号線)はその上を通っています。そして、後背地の方が低地になるため、その排水路は海岸線つまり海岸砂丘と平行に走り、砂丘が切れた場所で駿河湾に流れ出ることになり、その代表が田子の浦とよばれる入江でした。
小田原の海岸砂丘はこれほど明瞭ではありませんが、南町付近を歩いてみると、西海子小路から国道1号線へは微妙に上っているのが分かり、街道が微高地にあることが実感できます。
小田原城下の絵図を見ると、町屋町は武家屋敷地とは明快に区分されていたようで、東海道と甲府道の沿道に配置されていました。
両街道の分岐は現在の青物町交差点ですが、ここから北に延びる国際通りが、かつての甲府道とよばれた街道筋で、現在でのアーケードの架かる商店街となっています。
左:旧甲府道の青物町商店街(国際通り) 右:国道1号線(旧東海道)
2度の震災と戦災により、相模一の規模を誇った宿場町の古い町並みは全く残っていませんが、銀座通りと呼称される旧甲府道には昭和初期に建築された出桁造りの商家が残っています。
寛文元年(1661年)創業とされる倭紙茶舗江嶋は、関東大震災で倒壊後の昭和3年に再建され切妻二階建ての平入り商家で、下目板張りの外壁に大きな棟を上げ、鼻を銅板で巻いた二段の出梁に出桁を乗せた、美しい軒裏を見せてくれています。
左:倭紙茶舗江嶋(銀座通り) 右:鼻を銅板で巻いた二段の出梁
出梁造りの家屋は、東海地方の伝統的な建築様式のようで、市街地の所々に見ることができます。小田原では戦災を免れた城下町西側の板橋によく見られます。
別荘地の板橋と武家屋敷跡の西海子小路
小田原城下の西門にあたる早川口を過ると、東海道は西川沿いに箱根の山越えを目指しますが、新幹線の高架をくぐると板橋の町並みが続きます。
板橋の町には、大工や石工、木工などの建築関係の職人たちが多く住んでいたそうで、関東大震災により板橋の町並みもこの時に壊滅して、現在見ることができる古い町並みは震災後に再建されたものです。
板橋の町並み
また、ここから山腹部は明治以降に著名人が別荘を構えた町として発展しました。
明治中期、小田原駅付近に伊藤博文の別荘「滄浪閣」が、城跡には御用邸が設けられたように、小田原は東京から近い温暖で風光明媚な町として知られていましたが、特に板橋の山腹は、見晴らしの良い南斜面で、相模湾を眼下に富士山を遠望できる場所として別荘地に適していたようです。山縣有朋の別荘「古稀庵」を始め、大倉喜八郎(大倉財閥設立者)や三井財閥の益田孝などが相次いで別荘を構えました。
八幡山山腹には別荘の屋敷門がある
八幡山中腹から駿河湾を望む
国道1号線の南側、南町付近はかつての武家屋敷地でした。
その中の西海子小路(さいかちこうじ)と呼ばれる通りには武家屋敷の名残がみられます。
旧武家屋敷や屋敷門などが残っているわけではありませんが、400mにわたり桜並木の歩道が続き、沿道に並ぶ塀や生垣の向うには大きな庭木が茂る、武家屋敷地の趣を残す緑豊かで瀟洒な邸宅街となっています
西海子小路の桜並木と閑静な町並み
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