まちあるきの考古学 豪壮な店蔵の残る 手漉き和紙の里
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伊野のまちあるき 伊野は手漉き和紙の里です。 |
国道33号線(旧松山街道)沿いに残る漆喰塗り込めの店蔵 |
伊野の歴史 伊野が和紙の町となったのは、良質の原料と仁淀川の水に恵まれたためですが、本格的な産業として隆盛するのは、江戸初期に山内一豊が土佐入りして以降のことです。 |
伊野の立地条件と町の構造 土佐市内を走る路面電車・土佐電は、鏡川を渡り高知大学前を過ぎると、烏帽子山地の北麓に沿って国道33号船と併走し、やがて仁淀川の手前で終着駅の伊野駅に着きます。 仁淀川は、四国最高峰の石鎚山を源流とし、吉野川、四万十川につづく四国で3番目の河川です。上流域にある旧吾北村などの山間地は、古くから楮の生産が盛んな地域でした。 国道33号線は、かつて松山街道をよばれ、高知から伊予松山に通じる街道でした。 伊野は、上流域が楮の産地である仁淀川と高知に通じる街道筋の交わる要所に位置しています。 仁淀川は四国を代表する大河です。 伊野は、仁淀川河口から12km程上った場所にありますが、川幅は400m以上もあり、川岸には高い堤防が築かれています。洪水時の水量の多さを物語ってくれます。 二代藩主忠義の時代に大規模な堤防工事が行われ、元禄年間には椙本(すぎもと)神社の門前辺りに、伊野の町並みが形成されました。 高い堤防の上に立ち、雄大な仁淀川の流れと背後の山々、そして、かつての和紙問屋の甍の連なりを眺めていると、椙本神社の門前に船着場があったのではないか、などと想像が広がります。
町のヘソは椙本神社です。 椙本神社は大国主命を主祭神として、地元では「大国さま」と呼ばれています。秋の大祭には、ご神体が乙女の舞や扇の舞、獅子舞等を従えて、神社近くの仁淀川の河原まで「御神幸」を行います。 社の由緒によると、9世紀には現在地に鎮座したとされ、千百年以上の歴史を誇る古社です。 土佐電伊野駅に戻ります。 明治41年に開業した土佐電鉄伊野電停は、昭和20年まで和紙等を運ぶ貨物列車の始発駅として賑わいました。 現在でも市民の足として活躍しています。 松山街道は伊野の町中を屈曲しながら貫通しています。 沿道には多くの古い町屋が並んでいます。 切妻平入りで、下屋が一間でた中二階の家屋が主流のようで、中には虫籠窓をもつ相当古い町屋も見られました。 また、どの家屋にも人が住んでいて、手入れも行き届いているようですが、どれも相当改造されているようです。 伊野でも、水きり瓦が沢山みられます。 主に妻面の壁に、瓦を漆喰で貼り付けて庇にしたもので、雨水を壁に染込ませない工夫だそうです。 和紙問屋だった土居邸は、明治22年建築の店蔵で、綺麗に修復保存されています。外壁には下目板張り、煉瓦、貼り石、海鼠壁、白漆喰など、水切り庇もあり、とても賑やかですが、全体的には落着いたデザインになっています。 いの町立図書館は伊野町屋をモチーフとし、コンクリートと硝子を素材にした和テイストの建物ですが、水切り瓦を金属でイメージした瀟洒なデザインになっています。 椙本神社から上流側の国道33号線沿道には、数棟の店蔵が残っています。 外壁を黒漆喰で塗り込み、屋根には箱棟と軒蛇腹を備えて重厚な構えになっていますが、妻面は下目板張り、二階の観音開戸は鉄板の片開き、一階には出格子があり、関東風と京風が混在している感じがします。 国道は横断するもの大変なほど交通量が多く、大型車両も頻繁に通っていました。 これほどの幹線道路に面していて、これだけの数の店蔵が良く残ったものだと思います。 町中にある「紙の博物館」は見応えがありました。 土佐和紙の歴史がパネルや模型でわかりやすく説明されていて、和紙製造の道具の展示、紙漉きの見学・体験もできるようなっていて、販売コーナーには色鮮やかな和紙が並び、和紙の素晴らしさが伝わってくる博物館でした。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2010年6月 参考資料 @「いの町 紙の博物館」パンフレット 使用地図 @国土地理院 地図閲覧サービス
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