まちあるきの考古学 南国土佐の県都 低地に造られた城下町
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高知のまちあるき 南国土佐は、北に山地が迫り、南は太平洋に面する、まさに山と海の国です。 |
地図で見る 100年前の高知 現在の地形図と約100年前(昭和8年)の地形図を見比べてみます。 ※10秒毎に画像が遷移します。 昭和8年の地形図をみてみると、高知城を中心に市街地が東西に広がっていることが分かります。 南に流れるのが鏡川で、城下町時代から外堀の役割を果たしてきた河川ですが、昭和初期でも、市街地は川を越えて広がってはいません。 市街地の中心は、はりまや橋です。 土佐電鉄の路面電車は、ここを起点として十字に路線が延びています。 北端はJR高知駅、南方向の斜め右方向にあるのが高知港桟橋ですが、現在、桟橋はなく港は太平洋岸に移転しています。西方向は和紙の生産地・伊野まで通じ、東方向は御免町(南国市)まで通じています。 この頃の高知市の人口は約10万人、現在の凡そ1/3です。 現在の地形図では、市街地は四方に大きく広がり浦戸湾西側の平地はほぼ市街地になっています。 湾東側の一帯は低地で水害被害を最も受けやすい地域ですが、路線電車の沿線は市街化されています。戦後になっても豪雨による浸水被害が多くでた地域です。 |
高知の歴史 高知の歴史は、南北朝時代に南朝の大高坂松王丸が、高知平野の中心にある大高坂山に城を築き拠点としたことに始まります。 |
高知の立地条件と町の構造 高知県は、四国の南半分を占め、北は急峻な四国山地で隔てられているため孤立傾向が強く、逆に南は太平洋に大きく開いた地形をしています。 海岸線は室戸岬と足摺岬を両端として大きな弧を描き、その中央部には浦戸湾が入り込み、湾奥に高知市街地があります。 高知県中央部には3本の山地が東西方向に走っています。 一番北側が標高1000〜2000m級の四国山地、その南に細薮山地と呼ばれる標高500〜1000m級の四国山地の支脈、そして海沿いに標高100〜150m級の烏帽子山地と十市山地が平行に並んでいます。 高知は、細薮山地の南麓に位置する盆地にあり、烏帽子山地と十市山地の間を切れ込むように入り込む浦戸湾の奥に市街地が広がっています。 高知城下町は、城山の大高坂山を中心として、鏡川など浦戸湾に流れ込む河川の堆積土による低湿地帯に造られました。 紀貫之が土佐国司として赴いていた時代、現在の高知市街地一帯はまだ浦戸湾内にあり、内海七島と呼ばれる島々が浮かんでいたといいます。 その後、鏡川や江の川など数多くの河川が運んできた土砂が湾内に堆積し、山内一豊が入封した江戸初期には、低地の広がる平地になっていて、大々的な河川改修がなされて城下町となりました。
城下町建設以来、高知は幾たびもの浸水被害に悩まされ続け、戦後になっても、市街地の大半が浸水する水害に見舞われたことは既に述べました。 浦土湾奥の東岸にある五台山からは、高知市街地と浦土湾が一望できる展望台があります。 そこからのパノラマは、高知が浦土湾に浮かぶ町だということが、手に取る様に分かります。
「高知」は江戸初期まで「河中」と呼ばれていました。 高知城下町が低地に造られたことを象徴していますが、洪水が頻発するのは低地のためだけではなく、高知県の気候と浦土湾の地形にも原因があります。 高知県はプロ野球のキャンプ地になるなど、年間日照時間が2000時間を越える全国トップクラスの温暖気候地ですが、年間降水量も4300mm程にのぼり、これもトップクラスだそうです。特に台風銀座と称されるほど台風の来襲が多く、上陸回数は鹿児島県に次いでいます。 また、浦土湾には、東方面から国分川、舟入川、下田川が、西方面から鏡川、久万川、江ノ口川など多くの河川が流れ込んでいます。 それにも関わらず、浦土湾口は狭くて浅いという、水はけの悪い地形になっています。 湾口の幅は、浦土と種崎の間では230mほどしかなく、水深は最大で10mほどしかありません。 湾口付近には種崎の太平山や浦土の城跡がある小山が位置し、さらに高知湾の沿岸流が形成する海岸砂丘が口を塞いでいるためです。 市街地を歩いていると、高知の町が低湿地に造られたと実感できる風景が見られ、今まで洪水被害と闘ってきた名残りがみられます。 まず目につくのが河川の水面の高さです。 江の口川は城下町時代の北の外堀の役目を果たしてきた川ですが、まちあるきの日は雨上がりでもないのに、水位は高く、満々と水を湛えていたのが印象的でした。 同じく国分川も水位は高く、土佐電鉄も水面すれすれを走っています。 この付近は、右岸が知寄町 左岸が葛島・高須と呼ばれる海抜0m地帯で、高知の中でも特に低地の洪水頻発地で知られる場所ですが、河岸に連なるコンクリート堤防は高く、所々に大きなの水門が設置されています。 城下町の南端を画してきた鏡川には、城下町時代からの洪水対策の名残りがあります。 上町の鏡川沿いには築屋敷と呼ばれる堤防上の片側町があります。 江戸中期、鏡川大堤の外側の河川敷に、町民が藩の許可を得て自力で石積みを築き開発した町です。 前面道路には脱色アスファルトと凝石張りの舗装がなされ、雑石積みや白漆喰の土塀が綺麗に復元されていて、旧武家屋敷のような風格のある町並みとなっています。 この堤防の上に水丁場が残っています。 鏡川流域の洪水災害を防ぐために設けられた受け持ち区域(丁場)を示す標柱で、出水時に、武士・町民が協力して、それぞれ受持ちの丁場に出動し、水防の任に当たったといいます。 高知城下町は、北は江ノ口川、南は鏡川で区切られ、東西に長い長方形をしていました。 そして、城郭周辺の中心部には武家屋敷地が広がり、その東西に町屋町が配置され、その外側に足軽町がおかれていました。 つまり、南北2つの河川に挟まれた細長い地域を、羊羹を切るように土地利用区分したのが城下町の基本構成で、その中心に城郭が座っていました。 現在の高知市街地は、南北の川を越えて大きく広がり、かつて土地利用区分の名残はありません。代わって、南北と東西に走る土佐電鉄の2つの路線が新たな軸線となって町を構成しています。 そして、2つの路線が交差する場所にあるのが、はりまや橋です。 南北方向の路線は桟橋線といい、北の高知駅から南の桟橋通五丁目までの短い区間です。 桟橋通五丁目はかつての高知港桟橋のあった場所で、伊野で生産された和紙の積出港として活況を呈し、土佐電鉄発祥の地ともいえる駅です。土佐電鉄本社はここにあります。 現在では防波堤があるだけで、積み出し港の名残は路面電車だけになっています。 一方の終点はJR高知駅になっています。 平成20年にリニューアル開業した駅舎は、地元の杉材を使ったアーチ状の大屋根が架かる印象的な建物です。 路面電車はJR駅舎に突き当るように直交して配置され、駅舎を出ると直ぐに路面電車に乗車できるよう便利になっています。路面電車の走る都市は札幌・函館から南は熊本・鹿児島まで沢山ありますが、JR駅と直交の位置関係にあるのは、福井、岡山、豊橋ぐらいで、高知が駅間が最も近いと思います。
東西方向に路面電車は、それぞれ終点の駅名をとって、はりまや橋から西が伊野線、東が後免線と呼ばれています。 伊野線の堀詰駅から枡形駅までは旧武家屋敷地にあたりますが、この区間が土佐電鉄開業時の路線で、城下町時代から本町通りと呼ばれてきた道路です。 城下町では、「本町」は町屋町の町名であることが多く、高知のように武家屋敷地の町名になっている例は珍しいのではないかと思います。 2つの路面電車の交差する場所がはりまや(播磨屋)橋で、高知の町のヘソにあたります。 はりまや橋とは、江戸時代の豪商播磨屋が架けた私設の橋に由来し、元々は町屋町を貫通していた堀川に架かる小橋でしたが、明治後期の路面電車開業に伴う街路整備により目抜き通りに一変しました。 はりまや橋の西に中央公園という広場があります。 ここは城下町時代の町屋町と武家屋敷地を隔てた堀のあった場所です。 低湿地に造られた城下町だけあって、近年まで町中には幾つもの堀が残っていましたが、昭和30年代後半から始まった製紙工場からの排水による水質汚濁がひどくなり、市街地に残っていた堀は埋め立てられていったといいます。 町には堀の名残りがたくさん見られます。 播磨屋橋の架かっていた堀川の旧河道は、親水公園として綺麗に整備されています。 そこには川が流れ、河岸風に設えた木製デッキ、街路樹などが配され、常夜灯や社まである凝った作りをしていますが、人通りは少なく活気がありません。 沿道の建物の裏になっているためです。 今のように整備されるまで、この場所は裏通りか枯れ川で、忘れ去られた空間だったのだと思います。親水空間を利用して店舗などができれば、人の集まる素敵な場所に生まれ変わるかも知れません。 中央公園から南北に延びる街路は、武家屋敷地と町屋町を東西に仕切っていた堀の名残りです。 道路の真ん中に街路樹が植わり、さほど往来もないのですが、妙に広い空間になっています。夕暮れからは屋台がでて賑やかな通りになるようです。
高知の商業店舗は、松山や高松のように、城下町時代の主要街道沿いに細長く連なるのではなく、中央公園を中心とした帯屋町一帯に集中しています。 中央公園から西側はかつての武家屋敷地なので、商業地区が旧町屋町と旧武家屋敷地にまたがる形で広がっています。 大橋通りは大正7年に公設市場として開設された商店街で、生鮮食品や海産物惣菜などを扱う店が多く、「土佐の台所」と呼ばれています。 大橋通りの先にあるのが、高知の特産品が沢山集まった集合型市場の「ひろめ市場」です。 平成10年にオープンした大きな屋台村で、観光客や地元の人に支持され、観光ガイドの筆頭を飾る高知の名物市場です。 駐車場になっていたバブル期の地上げ跡地を活用して、地元の商店街、建設会社、スポンサー企業が協力して成し遂げた、町興し事業の成功事例として全国的に有名です。 観光客の目から見て、ここの魅力は溢れる市場の活気です。 目の前で大きな塊の鰹のタタキが炙られ、高知の特産品が並んだ店頭で店のオバちゃんとの会話が弾み、中央の共同テーブルでは屋台から持ち寄った地元食材で見知らぬ者同士の宴会が始まっていました。 新しい市場が成功しているのは、観光客だけでなく、地元の人達が繰返し訪れているからだと思います。 はりまや橋の東にある「はりまや橋商店街」は、全国的にも珍しい木造アーケードの商店街です。 道路を天蓋で覆うアーケードは、火災時の延焼の危険性がネックとされています。 店舗からでた火がアーケードを伝って商店街全体に燃え広がる恐れがあるのです。そのため、アーケード構造体は基本的に不燃材料を用いて、沿道建物の外壁等も耐火・防火構造としなければなりません。 これを解決するため、スプリングラーとドレンチャーによる水のカーテンを、アーケードと沿道建物の間に設置しているようです。 高知の天守閣は、国内にある12箇所の現存天守の一つです。 大きな入母屋造りの屋根の上に望楼を載せた、慶長期の典型的な望楼型天守ですが、現存する建物は、享保十二年(1727)に焼失した後の再建されたものです。 創建当時の姿をそのまま踏襲して再建されたようで、慶長期に築城された犬山城や丸岡城と良く似ています。 維新以降に廃城となった際、本丸の建造物と追手門だけは残されたようです。 戦後、天守閣をはじめ各建物の修理が始まり、現在のように石垣や内堀を含めた城郭一帯が復元されました。
高知の町中にはかつての古い町並みは全く残っていません。 城下町時代の名残りといえる建築物は、高知城と旧山内家下屋敷長屋だけではないでしょうか。 下屋敷長屋は、江戸末期に土佐藩主が下屋敷を建設したおりに建てられた、桁行十七間半、梁間二間半の二階建て入母屋造の武家長屋です。屋敷の警護につく武士が宿泊するものでした。屋敷は戦後に売却されて、跡地は三翠園という高級旅館になっています。 |
歴史コラム
高知名物 鰹のタタキ
まちあるきの日、高知は「竜馬」一色でした。 「土佐・竜馬であい博」と称して、高知駅前には杉檜を使用した観光案内所が新設され、竜馬のテーマ館がオープンしていましたし、町中至る所に、有名な銀板写真の竜馬、小山ゆうの漫画の竜馬、そして福山雅治の竜馬が町中の至る所にいました。 ところで、高知といえば鰹のタタキ。 鰹を節状に切って、皮の部分を藁などの火で炙り、氷で締めたものです。 夏の到来を告げるその年初めての鰹の水揚げを「初鰹」(はつがつお)と呼びます。 黒潮にのって北上する初鰹は港によって時期がずれますが、漁獲高の大きい高知県の初鰹の時期を「初鰹」と呼ぶことが一般的です。 夏に黒潮にのって三陸海岸沖まで北上し、親潮の勢力が強くなる秋に南下してくる鰹は「もどり鰹」と呼ばれ、低い海水温の影響で脂がのっており、美味しいといわれています。 店では、細切り玉ねぎの上に厚いタタキがのり、たっぷりのネギとスライスにんにくを一緒にいただきます。 特に、土佐の台所ともよばれる大橋通りにある「池澤」の塩タタキは絶品でした。 ひろめ市場、市内の居酒屋、空港の店と、その土地の名物一点を食べ歩く習性のある私としては、2日の滞在中に4回食しましたが、ここのタタキが一番でした。 わずか4店での比較ですし、他店に比べて値段の方も少々高いので、美味くて当たり前なのですが、鰹の塊を藁で炙っただけ、ぐらいの認識しかなかった自分としては、店によってこんなに違うものか・・・と驚きました。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2010年6月 参考資料 @「地図で読む百年 中国・四国」 A「四国の城と城下町」 B「城下町の近代都市づくり」 C土佐・竜馬であい博 チラシ 使用地図 @1/25,000地形図「高知」平成17年修正 A1/25,000地形図「高知」昭和8年修測
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