まちあるきの考古学 土蔵文化の息づく会津盆地の商都
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喜多方のまちあるき 喜多方は会津盆地北部にある町です。 |
左:喜多方中央通りの甲斐本店の店蔵 右:関山村に残る街道沿いの門風の土蔵 |
地図で見る 100年前の喜多方 現在の地形図と約100年前(明治43年)の地形図を見比べてみます。 ※10秒毎に画像が遷移します。 明治43年の地形図をみると、現在の喜多方の中心市街地は、田付川を挟んで小荒井村と小田付村に別れていることが分かります。 喜多方駅は明治37年に南の町外れに開設しましたが、現在の地形図をみると、駅前への市街化が進み、小荒井村と小田付村の区分も分からなくなっています。 町の東を南流する押切川は西方向に河道が変更され 跡地には運動公園、体育館、文化センターが立地しています。 喜多方駅の南にある工場は、昭和18年に開業した昭和電工喜多方工場で、アルミニウム精錬を行う工場ですが、ここに電力を供給するために阿賀野川上流の下郷町の旭ダムで発電され喜多方まで送電されています。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
喜多方の歴史 奥州藤原氏の滅亡後、会津四郡は戦功のあった佐原義連に与えられ、それを継いだ芦名氏が、その後400年にわたり会津盆地の領主となります。 |
喜多方の立地条件と町の構造 山形県と福島県の県境、飯豊連峰と吾妻連峰(裏磐梯)の間に飯森山(標高1,595m)があります。 この山の南麓から田付川、押切川、濁川などの河川が流れ出て、暖勾配の扇状地を形成して阿賀野川に合流しています。 この緩やかな扇状地の端に喜多方の町は立地しています。 猪苗代湖を水源とする阿賀野川は、会津盆地の中心部を蛇行しながら西流していますが、その左岸(南側)にあるのが城下町会津若松で、右岸(北側)に位置するのが在郷町喜多方でした。 江戸時代には、盆地北部の農産物集散地の在郷町として、漆器と醸造の産地として、また、米沢街道の中継地として栄えました。 明治に入ると、生糸・製糸業が盛んになり、飯森山南麓の熱塩にあった加納銅山の隆盛によっても町の発展は促されたようです。 喜多方の中心部は、町の中心を流れる田付川を挟み、右岸の旧小荒井村と左岸の旧小田付村からなっています。 旧小荒井村の中心が現在の中央通り、旧小田付村の中心が南町で、両通り沿いに土蔵の町並みが残っています。 喜多方市内には2600棟を越える蔵があるといいます。 それらは、単なる倉庫としての土蔵だけでなく、店舗(店蔵)、住まい(蔵座敷)、漆器職人の作業場(塗り蔵)、酒・味噌・醤油の貯蔵庫(酒蔵・味噌蔵・醤油蔵)、これらに加え、屋敷の塀(塀蔵)やトイレ(厠蔵)などもあり、実に多種多様な用途に利用されています。 そして、外壁材料についても、白漆喰の塗り込め壁のほかに、黒漆喰、煉瓦、土壁など、多くの種類があります。特に煉瓦貼りのものが多く見られるのが特徴です。
喜多方に現存する土蔵のうち最も重厚なものは甲斐本家の蔵座敷のようです。 その蔵座敷は、中央通りの土蔵の町並みが疎らになる1丁目にありました。 通り沿いにある店蔵は、箱棟に軒蛇腹をもつ屋根を頂き、二階には観音開き戸に目塗り台、一階腰には石を巻いています。外壁全体を黒漆喰で塗り込めていますが、開き戸と一階建具を銅板で葺いているのが特徴です。 蔵座敷は店蔵の奥にありました。 大正6年から7年の歳月をかけて建築されたもので、外観は店蔵と同じですが、五十一畳もある広い座敷は、土蔵とは思えない豪華なものでした。 南町は、店蔵が連なる静かな町並みでした。 紅色の桟瓦で葺いた切妻二階建てが基本構成のようですが、一階には、細格子の入ったもの、洋風に改築されたもの、様々な土蔵がありました。 特に腰巻が、タイル張り、板張り、石張りなど様々あったのが印象的でした。 会津地方の土蔵文化 それにしても、かつての商都とはいえ、会津盆地の片田舎に、何故これほどの数の蔵が建てられ、今なお現存しているのか、とても不思議に感じました。 インターネット検索では、この疑問に対する様々な答えが見つかりました。 1.良質の湧水と米、麦、大豆などに恵まれた会津盆地で、酒・味噌・醤油などの醸造業を営む場として蔵が最適であった。 2.会津藩の奨励した漆器生産、明治初期から始まった生糸生産など、地場産業の隆盛とともに作業所としての蔵が建てられた。 3.明治13年の大火により、防火性能の高い土蔵造りへの認識が高まった。 4.土蔵を建てることは「卯建を上げる」ことと同様に、家のステイタスシンボルであった。 おそらく全てが正解なのでしょうが、どれも決め手に欠ける気がしてなりません。 町中に残る土蔵の数は多く、川越、佐原、栃木などの関東の有名な蔵の町にも負けないだけの土蔵があります。 喜多方の経済的全盛期には、数多くの土蔵が建築されたのでしょうし、その後、建替え更新されることなく多くの土蔵が残ってしまったのだと思います。 しかし、それだけでは説明がつかないほど町の規模に比して土蔵が沢山あります。 何となく判然としないまま、会津盆地の端、山麓の村々にも土蔵の町並みがあるときき、そこに足を運ぶことにしました。 杉山村の土蔵 杉山村は、喜多方の中心を流れる田付川の上流域で旧米沢街道筋にあたり、喜多方の10kmほど北の飯豊山地の麓に位置します。 戸数19軒の小さな集落で、昔は木炭や笠の原料であるスゲ草の産地でした。 この村には喜多方より一回り大きな土蔵が、一本の道を挟んで両側に並んでいます。 土蔵の用途は貯蔵や座敷蔵のようで、東北地方に多い曲り家のように、奥にある母屋と繋がっています。母屋はトタンで覆われた茅葺き家屋のようです。 ある蔵に設けられた観音開き扉は、畳一枚程もある大きなもので、黒漆喰をあしらった目塗り台まである立派なものでした。腰壁に巻いてある植物はスゲ草かも知れません。 総じて手入れは良く行き届いているようで、保存改修に対する行政の補助金があるのかも知れません。 どうも、この村では、貯蔵や醸造、作業蔵として土蔵が建てられたのではなく、家の設えの一つとして建てられているように感じました。 関山村の土蔵 もう一つ訪れたのが、関山村です。 会津若松から約15kmほど南にある旧下野街道の宿場町で、大内宿に向かう通称「大内宿こぶしライン」の途中に位置します。 街道沿いの南北500mにわたる旧宿場町は、基本的には一定の間口で茅葺の母屋が街道に面して妻面を向けて並び、敷地の奥に土蔵が建っています。大内宿と同じ配置です。 トタンで覆われた茅葺家屋に混じり、大きな土蔵が街道沿いに建っています。 その土蔵は、一般的に見られるものより一回り大きく、土壁塗りに虫籠窓をもつ商家風の土蔵、立派な観音扉をもつ正統派の土蔵、会津地方独特の冠型の屋根の架かる土蔵など、形式は様々なものがありました。 共通点といえば、出入口が妻面にあること、そして奥の母屋と繋がっていることぐらいでしょうか。 そんな中で目を見張ったのが下の写真の土蔵です。 白漆喰を塗りこめ、腰には下目板張りを施し、中央に出入口を設けた左右対称の堂々たる構えは、構造的には2棟の土蔵に一枚の屋根を架けたものですが、一見、上級武家の長屋門のように見えます。 丸見えの屋根裏小屋組みが少々安普請のようですが、外壁は立派な土蔵でした。 見ての通り手入れは行き届いておらず、奥の母屋にも人気は余り感じられませんでしたが、旧宿場町の中央付近にどっしりと構えた姿には強烈な存在感がありました。 そもそも土蔵は、母屋に付属して設けられた倉庫です。 目立たぬよう控えめにありながら、家の財産を火災などから守る、これが元来の土蔵の姿ですが、これが巨大化して表に姿を現わし、道行く人に家の財力や権勢を見せつけるように存在し、威圧感すら与えています。 この村でも、土蔵は貯蔵、醸造、作業所としてではなく、家の構えとして建てられているように感じました。 地域の気候・風土や産業の必要性から生まれ根づいてきた建築技法が、やがて時代を経て昇華され伝統になる。 土蔵造りは、防火性能や断熱通気性などの機能を追求した建築構造としてではなく、会津地方における居宅の建て方の作法の一つとして存在しているのかも知れません。 家には土蔵があるべきもので、誇れるほど立派な土蔵は、最も目立つ場所に建てるものなのかも知れません。 土蔵造りは会津地方の建築文化なのだと思います。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2010年8月 参考資料 @「日本図志大系」 朝倉書房 使用地図 @1/25,000地形図 「喜多方西部」「喜多方東部」 平成3年修正 A1/50,000地形図 「喜多方」 明治43年修測
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