まちあるきの考古学
白 河   <福島県県白河市>


奥州の玄関口 阿武隈川段丘の城下町





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白河のまちあるき


白河は、奥州への玄関口に位置しています。

律令時代には、陸奥国に通じる東山道の要衝として白河関が置かれ、江戸時代、白河藩には十万石級の有力な親藩・譜代大名が配されて、奥羽外様大名の押さえとしての役割を担ってきました。

城下町には奥州街道が通り宿場町としても発展したようですが、現在、市街地に古い町並みは殆ど残っていません。
しかし、旧奥州街道沿いには数多の看板建築と幾つかの土蔵も見られたので、町並み調査をすれば明治期の町屋が見つかるかも知れません。

また、白河小峰城は、土塁主体の東日本にあって、珍しく石垣が大規模に築かれています。
白河石という良質の建設石材の産地だったためです。




左:白河小峰城  右:奥州街道沿いにある大谷酒造

 


 

白河の歴史


白河小峰城は、南北朝時代に結城親朝が興国元年(1340)小峰ヶ岡に城を構えて、小峰城と名づけたのが始まりといわれています。

寛永四年(1627)、丹羽長重が十万石を領して棚倉藩より移封されてきた時、幕命によりすぐさま城郭の大改築に着手します。四年の歳月を費して完成した典型的な梯郭式の平山城でした。

白河藩には、奥羽の外様大名の抑えとして有力な親藩・譜代大名が藩主として頻繁に入れ替わります。

丹羽氏の後、榊原、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部、と七家二十一代にわたる目まぐるしい藩主交代を経て、慶応三年(1867)に阿部氏が棚倉藩へ移封された後、白河は幕府領となって二本松藩丹羽氏の預かりとなり、翌年には戊辰戦争を迎えます。

奥州の入口にあたる交通要所の白河では、新政府軍と奥州越列藩同盟による攻防が繰り返えされ、小峰城は落城して城下町の大部分が焼失してします。

東北本線の開通は明治20年。日本初の私鉄である「日本鉄道」による突貫工事により、東海道本線の全通より2年早い開通でした。昭和49年、白河インターから東北自動車道が東京につながり、昭和57年には東北新幹線が開通して新白河駅が開業します。
全国に先駆けて幹線交通路が整備されたのは、東北への玄関口という白河の立地条件の賜でした。


この地域特有の産業として白河石と馬産育成があります。

白河石とは、福島県南部から栃木県北部にかけて産出される良質の石材(安山岩質凝灰岩)で、古くから土木建築材・墓石・石彫材などに利用されてきました。コンクリートとの相性が良く、表面をビシャン加工や割肌仕上げをすることにより、柔らかな質感の石使いができるのが特徴です。

また、馬産育成は藩政時代から奨励されてきたもので、日本一といわれた馬市は昭和39年まで開かれていました。
市街地の西方の小田倉には、明治30年に日本軍の軍馬補充部白河支部(軍馬育成所)が、明治32年に旧商務省の福島種馬所が開設されます。現在でも旧種馬所は家畜改良センターとなって、伝統的産業を継承しています。

平成3年、戊辰戦争で焼失した本丸の三層三重の櫓が、平成6年には前御門が、江戸期の史料に基づいて復元されます。
JR白河駅北側の旧城郭一帯は広大な城跡公園として整備され、城下町白河のシンボルとして多くの観光客を集めています。

白河を訪れた観光客が必ず食するのが白河ラーメンです。
市内に80店舗ほどのラーメン店があるといわれ、福島県下では喜多方ラーメンと並び称されるようになります。
白河ラーメンの特徴は、手打ち麺、ワンタン、しょうゆ味にあるようです。

全国各地のラーメン現地と同じように、その歴史は判然としませんが、それらしい歴史は語られています。
遡ること江戸中期、白河藩主松平定信公が、蕎麦の奨励を行ったことで麺打ちの技法が栄え、大正時代に白河ラーメンの原型となる手打ちの支那そばを出す店が人気を博し、昭和にはいって、ラーメン店主の努力により市民の食生活に広がっていったといいます。

 


 

白河の立地条件と町の構造



白河は奥州への玄関口に位置しています。

下野国(栃木県)に入った奥州街道は、鬼怒川に沿うように北上して、那須岳と八溝山地の間、境の明神峠を越えて奥州に入った場所に白河城下町があります。

那須岳は、那須連山とも呼ばれ、茶臼岳(1915m)を主峰とする山塊の総称で、東麓一帯は那須温泉郷と那須高原などの保養地として知られています。
八溝山地は、常陸(茨城県)と下野(栃木県)の国境を形成する標高1,000m級以下のなだらかな山地で、北は福島県に接する八溝山から南は筑波山まで続いています。



緩やかな山峡を抜けると、阿武隈川流域に入りますが、白河はその上流域に位置しています。

白河城下町には奥州街道のほか、会津若松に至る会津街道、阿久津(栃木県氏家町)に至る原方街道が集まっていました。

那須岳の東麓一帯は緩やかな高原地形のため、ここを源流とする阿武隈川やその支流は全て一旦東方向に流れ、阿武隈山地西麓で北に流れを変えています。
そのため、白河付近の丘陵地地形や河川の流れは東西方向が基本となり、南から北に抜けていく奥州街道は、低い丘陵地を緩やかに上り下りすることになります。



白河城下町は、富士見山丘陵の南麓を流れる阿武隈川と搦目手山丘陵の北麓を流れる谷津田川に挟まれた河岸段丘に形成され、白河小峰城は、阿武隈川の侵蝕から残された白河凝灰岩の小丘の上に築かれました。

小峰城は、阿武隈川を背にして、前面に曲輪を幾重にも配した梯郭式の平山城ですが、東日本では珍しく、石垣が大規模に築かれています。

東日本では、白石城、盛岡城、仙台城など、部分的に高石垣の積まれた城郭はありますが、総石垣造りの城郭は白河城ぐらいではないでしょうか。
白河石という良質な石材の取れたことが大きな要因かもしれません。


左:復元された前御門と天守  中:本丸石垣  右:内堀の石垣


小峰城のもう一つの特徴は、実質的な天守だった三層三重の櫓が、木造で史実に基づき忠実に再現されているところにあります。

これが可能になったのは、発掘調査の成果もさることながら、「白河城御櫓絵図」という江戸時代の実測図面が残ってことによります。
文化五年、時の藩主 松平定信が城郭内の建造物を実測した絵図で、城内の殆どの門、櫓等の実測図が現存しているそうです。

平成3年、絵図に基づき忠実に再建されたのが現在の天守ですが、望楼形式の天守などとは違って開口部が少なく、天守に登っても眼下の風景を一望することができないため、観光客の期待には応えてくれません。


史実に基づき忠実に再建された前御門


本丸から市街地方向をみる  天守からは眺望が利かない



現在の地形図に城下町時代の町割りを重ねたのが下図です。

城下町は、北の阿武隈川と南の谷津田(やんた)川に挟まれた場所に広がり、身分制に基づいた明快な土地利用をしていました。
阿武隈川南岸の残丘に築かれた小峰城本丸を中心に曲輪が配置され、西側には碁盤目状の武家屋敷地が広がり、その南側にカギ型状の奥州街道に沿って商人町、その裏通りに職人町と寺町が配置されていました。



街道には「通り五町」と呼ばれた5つの主要な町屋町がありました。
中心は本町で、その下手に中町、天神町と続き、天神町の突当りには天満宮があります。
街道は本町の外れから北に折れ、横町、田町と続き、阿武隈川に達します。

東北本線は、城郭・武家屋敷地と町屋町を分断して城下町を貫通するように敷設され、白河駅はかつての三の丸に設けられています。


左:JR白河駅のレトロな駅舎  右:奥州街道


左:奥州街道 カギ型状の屈曲部   右:奥州街道の突当りにある天満宮


白河駅から少し歩くと奥州街道に出ますが、通りは典型的な地方小都市の商店街でした。

カラーアスファルトの歩道と道路照明、沿道には看板建築が軒を連ねています。
所々に漆喰塗り込めの土蔵が見られますが、出格子に漆喰壁や中二階に虫子窓などの町屋はあまり見ることができませんでした。戊辰戦争により城下町は灰燼に帰し、その後、往時の隆盛を取り戻すことはなかったのでしょうか。
しかし、旧奥州街道沿いに軒を連ねる数多の看板建築の中には、明治期に建築された商家が沢山あるのかも知れません。


奥州街道の本町には看板建築が軒を連ねる


街道沿いの土蔵  左:大谷酒造   右:観音開き戸の平入り土蔵


町中には土蔵がたくさん残る  丁寧に保存されているもの、改修されているもの、放置されたもの・・・


通り五町に平行して南側には裏町がありました。
金屋町・愛宕町・大工町・馬町などの町名から想像するに職人町のようですが、五町からは一段低く谷津田川の段丘であることが分かります。
現在の大工町には飲食店が建ち並び職人町の名残はありません。

谷津田川は搦め手山丘陵地の北麓に沿って流れる川で、市街地の河川としては流れが速く蛇行しているのが特徴です。
戦前までは、この水流を利用して数多くの水車が設置され、米つきや綿打ち等が行われていたといいます。
平成10年の集中豪雨による水害が引き金となり、大規模な河川改修が行われました。
白河石の大石を組んだ護岸となって、せせらぎ通りと名付けられた遊歩道も整備され、親水性豊かな河岸景観となっています。


谷津田川  白河石を並べた護岸  写真右の建物は復元された水車小屋


白河市役所や市民会館などの公共施設が谷津田川沿いに立地しています。
旧城下町の市役所などは、かつての城郭や武家屋敷地に立地することが一般的ですが、ここは城下町の外れにで一番の低地にあります。

川沿いにある曹洞宗関川寺には、戦国時代に築造されたという空堀と土塁が残っています。
復元整備されず雑木林になっているため、写真では判読し難いのですが、現地が砦の跡であることは良く分かります。


関川寺  左:境内に残るの土塁  中:右奥の雑木林が土塁


関川寺付近の寺町の風景

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2010年8月


参考資料
@白河市役所発行の観光リーフレット
  「街歩きマップ」 「白河関跡」 「わたしの白河ガイドマップ」 「白河小峰城」
A「日本図志大系 東北」朝倉書店


使用地図
@1/25,000地形図「白河」平成12年修正

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