まちあるきの考古学
丸 亀   <香川県丸亀市>


金毘羅参詣の上陸港 優美な高石垣のある城下町





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丸亀のまちあるき


丸亀は、西讃岐の城下町として、そして金毘羅参詣者の上陸港として栄えた町です。

湊と常夜灯、鳥居と丁石が町中に残り、参詣道沿いには江戸末期からの町屋が並び、丸亀は金毘羅参詣の痕跡が色濃く残る町です。

しかし、まちあるきの印象では、城山の存在感が際立っていました。
現存する天守は三層の櫓ですが、優美な曲線を描く高石垣にあって、町の中心から良く見えるため、とてもシンボリックな存在になっています。

沸立つような樹木の塊から、幾重にも連なる高石垣がそそり立ち、その頂上に凛として建つ三重の天守。これが丸亀を代表する風景だと思います。



 


 

地図で見る 100年前の丸亀


現在の地形図と約100年前(昭和3年)の地形図を見比べてみます。  ※10秒毎に画像が遷移します。


昭和3年の地形図を見ると、丸亀城下町は、天守のある場所から海側に広がっていたことが分かります。

現在、市役所のある場所には、戦前まで陸軍の兵舎や練兵場などの施設がありました。
その海側に市街地が形成されている場所が、城下町時代の町屋町で、予讃線丸亀駅は旧町屋町の中心部におかれています。

その先に、広い白地の埋立地が見られますが、これらは全て明治時代以降に開発された塩田です。

現在の市街地は丸亀駅を中心に海沿いに広がっていますが、内陸側には田畑が残り、市街地はそれほど大きく拡大していないことも分かります。
塩田の広がっていた沿岸部には、工場団地やゴルフ場の立地する埋立地となり大きな変貌をとげています。


現在の地形図 100年前の地形図

 


 

丸亀の歴史


丸亀の歴史は、室町中期に管領細川氏に仕えた奈良太郎左衛門元安が、宇多津聖通寺山に本城を構え、那珂郡津森庄亀山の地に砦を築いたことに始まるとされます。

戦国末期には讃岐国十五万石を与えられた生駒親正が、5年の歳月をかけて亀山と呼ばれた標高70mほどの小山に築城し、丸亀城と名づけたのが地名の由来です。
生駒氏の居城は高松でしたので、元和の一国一城令により丸亀城は破却を命じられます。

寛永十七年(1640)、御家騒動により生駒氏が改易されると、山崎家治が肥後富岡より五万石にて入封し、丸亀城を本城とした丸亀藩を立藩します。
万治元年(1658)に山崎氏が三代で断絶して改易となり、代わって京極高和が播磨龍野より入封し、以降、藩主京極氏の治世が維新まで続きます。


丸亀の町を語る時に、忘れてはならないのが金毘羅参詣と塩田開発です。


江戸中期から流行した金毘羅信仰により、丸亀は金毘羅宮へ向かう参詣客の寄港地として大変賑わいました。

丸亀と大坂の間には、毎日定期の金比羅船が往来していたといいます。
当初は、城下東端にあった東汐入川から上陸していましたが、参詣客の増加に伴い、文化三年(1806)に福島湛甫(たんぼ・船着場)が、天保四年(1833)には新堀湛甫が相次いで築港されました。今も新堀湛甫とその頃の青銅製の燈籠が残っています。

参拝客を相手とした観光業は藩財政を大きく潤していたようで、丸亀名物の団扇も、金毘羅参りの土産物用に藩士の内職として奨励したのが始まりといわれています。

金毘羅参詣客は、丸亀のほか、高松、坂出、多度津などの港に上陸して、参詣道を琴平山に向かったようですが、明治以降は各港から鉄道路線が開通します。

戦前まで、瀬戸内の港から琴平には、国鉄土讃本線、琴平電鉄(現 高松琴平電気鉄道琴平線)、琴平参宮電鉄、琴平急行電鉄(戦時中に廃止)の4路線が乱立しており、地方としてはめずらしい過当競争の状態にありました。
この内、丸亀からは、大正2年に琴平参宮電鉄が琴平間まで路面電車を開通しましたが、昭和38年に路線廃止されています。
金毘羅参詣客の多さを象徴する出来事でした。


丸亀の塩田は、元和元年に播州赤穂から製塩業が伝えられたのが始まりといわれています。

明治以降、海岸沿いに新たな塩田が次々と開かれます。
明治4年に城下沿岸の西海岸に新浜塩田と経浜塩田(野口塩田)が開かれ、続いて、土器川河口の東海岸には足立塩田、土器塩田、そして新堀湛甫の沖に丸亀塩田が相次いで開発されました。
これらの塩田は地元資本による開発でしたが、大正時代に入ると、中央財界の大資本により、新居浜塩田の沖合いに82haもの広さをもつ蓬莱塩田が開発され、丸亀の塩田事業は最盛期を迎えます。

一方で、明治末期に塩の専売制が施行され以降、4回に分けて全国的な塩田整理が実施され、昭和に入ると丸亀の製塩業は衰退していきます。
昭和初期の塩田整理により、江戸期以来の古浜塩田、そして新浜、丸亀を加えた3つの塩田が廃止、昭和47年の最後の塩田整理では、蓬莱、足立、土器の各塩田の廃止されて、丸亀の塩田は姿を消します。

高度成長期に入ると、塩田跡地は工場団地に生まれ変わり、その沖合いにも次々と埋立てが行われます。

昭和38年、47haの工場団地が完成して昭和町と名付けられました。
続いて昭和町沖合いに50ha、旧蓬莱塩田沖合いに85haの埋立地が造成され、そして旧蓬莱塩田82haも工場用地に転換され、大手鉄鋼メーカーの系列会社や造船会社が立地しましたが、一方で、蓬莱塩田跡地の一部はゴルフ場となるなど、当初の計画通りに企業誘致は進まなかったようです。

 


 

丸亀の立地条件と町の構造



讃岐平野は四国の北東部に位置し、瀬戸内海に沿って東西に広がる細長い平野です。
この平野の特徴は、五色台、城山、屋島に代表される台地と、飯野山(讃岐富士)などに代表される円錐状の小山が、平野に浮かぶように点在していることです。

地質学的にいうと、台地はメサと呼ばれる開析溶岩台地で、小山はビュットあるいは火山岩頸と呼ばれるそうですが、両者はいずれも讃岐岩を中心とした安山岩で形成されています。
讃岐岩(サヌカイト)は非常に硬い岩で、叩くと高く澄んだ金属音を奏でるためカンカン石とも呼ばれ、木琴のように叩いて音を出す石琴(楽器名:サヌカイト)にも使われます。


城山から内陸方向の景色  印象的な形の小山が多い



讃岐平野は、讃岐岩で形成された残丘と河川の沖積作用による平地からできた平野ですが、丘陵地形によって、西から三豊・丸亀・高松・大川の4つの平野に分けられます。

丸亀平野は、東を五色台の山々で、西を象頭山(琴平山)や七宝連山で分けられる平野で、中央部には土器川、金倉川、大束川などが北流しています。
五色台は標高300〜400m級の山々が連なる溶岩台地で、ここから以西を西讃地方とよびますが、西讃地方の中心が丸亀になります。




丸亀城は標高70mほどの残丘に築かれた典型的な平山城です。
その東方向には、讃岐富士の別名をもつ飯野山や青ノ山などの独立の小山が点在し、その手前を流れる土器川の河口部左岸に丸亀城下町は位置しています。

沿岸部には、昭和町や蓬莱町などの広大な工場団地が立地していますが、これは塩田跡地などを利用した昭和以降の埋立地であることは既に述べたとおりです。


丸亀城

丸亀の町を歩くと、城山には圧倒的な存在感があることが分かります。

松山も、市街地の中心に存在感のある平山城が位置していますが、丸亀は、駅前の中心地から山上の石垣と天守が望めるところに特徴があります。



大手町から丸亀城の眺め


丸亀城の素晴らしさは、幾重にも連なる石垣の美しさにあると思います。
緩い勾配から次第に急になり、上部でそり返る石垣は、扇を開いたような形状から「扇の勾配」とよばれ、城の防御性を高めるとともに美しさも兼ねそなえています。



城山には見事な高石垣が復元されています


丸亀城本丸から讃岐富士を望む



城山からは市街地が一望できます。

南には飯野山(讃岐富士)、象頭山(琴平山)そして讃岐山脈の山々、東には五色台の山々、西には七宝連山と多度津港が良く見えました。
そして、北方向には、丸亀市街地と丸亀港、そして西備讃瀬戸に浮かぶ塩飽諸島が望めます。



城山から丸亀市街地と瀬戸内の眺め  遠くに塩飽諸島が望める


丸亀城には天守と石垣だけでなく、大手門など沢山の遺構が保存されています。

昭和28年に内堀の中一帯が国指定の史跡となりましたが、それに前後して、天守と大手一の門(太鼓門)、二の門(高麗門)が国の重要文化財に、御殿表門、番所、長屋が香川県の有形文化財に指定されました。
これらの他に、内堀の中には、野球場、遊園地、動物園などがありましたが、最近、閉鎖撤去されて城址公園としての整備が進んでいます。



左:御殿表門   右:大手一の門(太鼓門)


左:大手口 一の門と二の門  右:見事な石垣の内堀


丸亀城下町の構造


下図は、現在の地形図に幕末期の城下町の範囲を記したものです。
外堀と河川で縁取られた城下町はとてもコンパクトだったようです。

外堀からは東汐入川と西汐入川(現 埋立て)を通じて瀬戸内海につながっていて、総構えの城下町を形成していました。

丸亀城の四周には武家屋敷地が広がり、海側に配置された町屋町からは、高松、伊予、そして琴平に向かう街道が三方向に通じていました。
JR予讃線が旧町屋町を貫くように開通し、丸亀駅はその中心部に配置されています。

江戸後期に築造された福島湛甫と新堀湛甫の先には、蓬莱町などの工場団地の埋立地が広がっています。
今では福島湛甫は埋立てられましたが、新堀湛甫は大幅に改修されているものの、その場所に現存しています。



城下町時代、内堀と外堀の間で大手町と呼ばれる地区には、家老屋敷を中心とした上級の武家屋敷がありました。
戦後、外堀はすべて埋立てられ、大手町は市役所、裁判所、大手前高校などが立地する整然とした区画割りの市街地となっています。

一方で、城の裏側、七番町から十番町にかけての住宅地には武家屋敷地の風情が残されています。

塀はコンクリート製に変わっていますが、広い敷地の塀越に高木が繁り、所々に板塀や土蔵などが見られ、閑静な住宅地になっています。外堀跡は緑地になり、城下町の口には鳥居がありました。





旧武家屋敷地 七番町から十番町の町並み



江戸時代、丸亀からは高松と伊予への街道が通じていましたが、このほかに金毘羅参詣道が南に向かって延びていました。
参詣道は、新堀湛甫などの丸亀港を起点として、通町を南進して外堀端を西に折れて、餌指町、中府町などを通って琴平に至っていました。

参詣道沿いには古い町並みが残っています。

丸亀は戦災を受けていないものの、鉄道駅が町屋町の中心部に鉄道駅がおかれたため、町屋の建て替えが進んだようで、古い町並みが余り残っていません。
しかし、駅から遠い餌指町や中府町には、古い商家や燈籠、道標が残されて、かつての城下町の風情を今に伝えています。


金毘羅参詣道沿いにある丁石と燈籠


金毘羅参詣道沿いに残る町屋


中府町には石造りの鳥居があります。
明治4年に花崗岩で造られた高さ6.6m、柱間4.5mのもので、額には「金比羅宮」とあり、柱には「天下泰平」「海陸安穏」と刻まれています。

ここは、城下町丸亀町口の起点で、江戸時代は城下と城外を分ける番所が置かれていたそうです。


中府町の大鳥居


かつての町屋町の中心だった通町、富屋町、本町には立派なアーケードが架かって商店街になっています。しかし、沿道の店舗はシャッターが下りたものが多く、全く活気がありませんでした。典型的な地方都市の商店街です。

浜町商店街には、歩道付の広い道路全面にアーケードが架かっています。
透明な天蓋から明るい陽光が射し込む、新しく大きな天蓋ですが、一般的にアーケードは歩道だけ架かるか、歩行者専用道に架かるものですが、車道に架かっているものは始めて見ました。



左中:通町商店街のアーケード  右:浜町商店街は車道にもアーケードが架かる


通町から浜町商店街を抜けて、JR予讃線の高架をくぐると、かつて金毘羅参詣者が上陸した港に出ます。そこには、今も天保年間に築造された新堀湛甫と青銅の燈籠が残っています。

新堀湛甫は遊漁船の係留場となり、石積みの波止はコンクリート護岸になっていましたが、雁木風に復元されて参詣港の風景を継承していました。
雁木とは、潮の満ち引きに関係なく荷船が着岸できるようにした階段状の岸壁のことです。


新堀湛甫跡と燈籠


また、湛甫の入口には、天保九年(1838)に立てられた高さ5m以上もある青銅の燈籠が保存されています。対岸に1基、福島湛甫にも2基あったそうですが、現存しているのは1基のみだそうです。
いずれも、町の歴史を大切に継承している結果であり、とても素晴らしいことだと思いました。


丸亀港と銅製燈籠

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2009年10月


参考資料
@「いにしえのときを刻む 丸亀城」 丸亀市観光協会発行
A「地図で読む百年  中国・四国」

使用地図
@1/25,000地形図「丸亀」平成年修正
A1/25,000地形図「丸亀」昭和年修測

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