まちあるきの考古学
多度津   <香川県多度津町>


江戸時代は金毘羅参詣の上陸港 明治以降は四国の鉄道起点
舟運陸運の交通拠点の町





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多度津のまちあるき


江戸時代は金毘羅参詣者の上陸港として、明治以降は四国の鉄道起点として、長らく舟運・陸運の交通要所として栄えてきました。

かつての多度津駅の敷地にはJR四国唯一の車両工場である多度津工場が立地し、海岸部には常石造船最大の建造ドックを始めとした工業地帯が広がり、江戸時代以来の多度津の歴史を継承しています。
また、金毘羅街道に通じる本町通りには、本瓦葺の屋根と海鼠壁の二階腰壁に特徴がある町屋が軒を並べ、瀬戸内の港町らしい町並み景観を形成しています。

備後灘に面した小さな港町は、江戸時代から続く歴史が一杯詰まった町でした。



本町通りに残る本瓦葺の屋根と海鼠壁の二階腰壁に特徴がある町屋

 


 

多度津の歴史


金毘羅参りは江戸時代の民衆にとって一生の宿願だったといいます。
特に、文化文政期になって参詣は大きく盛り上がり、門前には100軒を越える宿屋や茶屋が並んだといい、琴平の町はたいへんな賑わいだったようです。

参詣者たちのほとんどは瀬戸内航路でやってきました。
遠国からの参詣者の上陸港が丸亀と多度津であり、備前より上方の参詣客は丸亀へ、中国・九州など西国からは多度津に上陸していたようです。

細川氏の守護領国である讃岐国において、西半分の六郡の守護代をつとめた香川氏がこの河口港を臨む多度津山に居館を構え、戦国期には城下町も形成されたといわれていますが、詳しくは分かっていません。

江戸初期の多度津は、丸亀を居城とする京極氏が五万六千石で領していましたが、元禄七年(1694)になって藩主の庶子高通に一万石が分知され多度津藩が成立し、以後、明治維新まで176年間続くことになります。
藩主は長い間、丸亀城内にとどまって多度津を治めていましたが、文政十年(1827)になってようやく多度津に陣屋を設けて入封します。

江戸中期からの金毘羅参詣ブームに対応して、丸亀は天保年間に新しい湛保(たんぽ・港)を建設して金毘羅船を集めて繁栄しますが、これに対抗する形で、多度津も天保五年(1834)から5年の歳月を費やして新たに多度津湛保の構築にかかっています。

讃岐の商品作物に讃岐三白とよばれるものがありました。
砂糖、塩、綿の三品を指してのことですが、多度津は金毘羅参詣の港町としてだけでなく、こうした商品の積み出し港として、また、魚肥や昆布など北前船が運び込む北国からの海産物の流通拠点として大いに発展します。

明治期以降、多度津は四国の鉄道の起点となります。

多度津で回船問屋を営んでいた景山甚右衛門が、金毘羅参詣客の輸送に着目して鉄道の開業を計画して、明治22年に多度津港から丸亀と琴平に至る讃岐鉄道を設立します。日本全国で9番目、四国では伊予鉄道に次いで2番目の鉄道開業でした。
この時、多度津駅は大阪方面からの各航路に接続させるため、港に近接されるように設置されて、スイッチバック(折り返し)構造になっていました。駅構内には車両修繕工場(現 JR四国 多度津工場)も併設されました。

明治37年には山陽本線を建設した山陽鉄道に買収され、その2年後には、鉄道国有法に基づいて同社が国有化されたため国鉄線になります。
以後、国鉄はこの路線を元に四国各地へ鉄道を延ばしていくこととなります。

多度津から西に延びる予讃線は、大正13年に今治、昭和2年には松山まで通じ、そして昭和20年には終点宇和島までの全路線が開通します。その後、多度津から南方向に阿波池田まで延伸され、既に建設されていた高知線と繋がった際に土讃線として独立した路線となります。
このように、多度津は四国の鉄道路線の起点となっていったのです。

大正2年には、多度津駅が港の隣接地から市街地の東外れに移転し、折り返し構造が解消されて、現在のような通過駅となります。
その後、様々な変遷を経て予讃線は高松が起点となりますが、土讃線は今でも多度津が北の起点となっていますし、JR四国の多度津工場は、同社唯一の車両工場として稼動しています。

戦前まで、琴平には、国鉄土讃本線、琴平電鉄(現 高松琴平電気鉄道琴平線)、琴平参宮電鉄、琴平急行電鉄(戦時中に廃止)の4路線が乱立しており、地方都市としてはめずらしい過当競争の状態にありました。
この内、琴平急行電鉄は昭和5年に全線開業した坂出を起点とする鉄道線でしたが、昭和19年に不要不急線として休止され、琴平参宮電鉄は大正3年に全線開業した多度津を起点とする路面電車でしたが、昭和38年に路線廃止されました。
金毘羅参詣客の多さと四国の鉄道敷設熱の高さを象徴する出来事でした。

昭和49年には、多度津港の沖合いに190万uの埋立てが行われ、現在では約50社の企業が立地し、近代工業都市へと変貌をとげています。
ここには、バラ積み船を主力とする国内有数の造船メーカーである常石造船(広島県福山市に本社)の多度津工場が大きな面積を占めており、同社最大の建造ドックが設けられて、舟運で栄えた多度津の歴史を継承しています。

 


 

多度津の立地条件と町の構造


多度津は讃岐平野の西部にあり、本台山(多度津山・標高93m)の東麓に広がる備後灘に面した港町です。

金毘羅宮の麓を流れる金倉川は金毘羅街道と土讃線に沿うように北流し、多度津と丸亀の中間にあたる中津の地で備後灘に流れ出ています。ここには丸亀藩主・京極高豊による名園・中津万象園があります。

大正3年の地形図をみると、金倉川河口からほぼ等距離に多度津と丸亀が位置していて、この時期、双方の町はほぼ同程度の市街地規模だったことがわかります。


丸亀市街地の沿岸部に見える埋立地は塩田ですが、この地形図は丸亀での塩田造成が最盛期を迎えた様子を示しています。
また、丸亀城を取り囲んでいた武家屋敷地には空き地が目立ち、鉄道駅の設置された町屋町一帯は発展している様子も見てとれます。

一方、多度津市街地の沿岸には、天保年間に築造された新湛保(港)がみえます。
西(左)側の山地は城山だった多度津山で、時代とともに変遷していく丸亀に比して、多度津は大正期になっても江戸時代の姿をそのまま残しています。




多度津はとても小さな港町です。そして不思議な町割りをした町です。

河口付近で大きく蛇行する桜川に守られるように町は広がり、多度津山麓には小さいながら寺町が形成され、江戸後期に設けられた藩主陣屋は、桜川対岸の海沿いに配されていました。


多度津の町割りをみると、大きくS字カーブを描いて流れる桜川の河道がとても不自然に思えます。

桜川は全長7km程の短い河川ですが、河口に位置する市街地は低地にあり、度々の洪水被害に悩まされてきたようで、近年の河川工事により、護岸は改修されて河口の水門は改築されました。
そのためか、小河川にしては川幅が広いのですが、水量は少なく流れもほとんど感じられません。川というより、堀や船溜りと呼んだほうが正確な気がします。


左:大きく蛇行する桜川  右:河口付近 水門が見える


桜川の不自然な河道は、江戸後期の藩主陣屋の建設に伴うものかも知れません。

江戸後期に建設された陣屋と武家地は、現在の町名で「家中」が藩主陣屋、「大通り」が武家地にあたり、この間には堀がありました。この付近の川幅は現在の倍程あったようで、これらは河口の痕跡ではないかと思っています。今の多度津町役場の敷地もかつての河川敷にあたります。

藩主陣屋と武家地が桜川河口に設けられた理由は分かりませんが、このために、桜川は流れを大きく左に転じて多度津山方向に流れることになったのではないでしょうか。

藩主が陣屋に入封した文政十年(1827)から7年後の天保五年(1834)には、新たな多度津湛保(港)の建設が開始されたことは既に述べました。
旧港の古湛保は仲町の桜川左岸一帯でしたが、新湛保は備後灘に波止(突堤)を突出して設けられました。
そのため、一旦、陣屋の手前で大きく左に転じた桜川は、今度は新湛保をかわすように右に転じて、結果的に大きなS字カーブを描くことになったのではないかと思います。

以上、筆者の想像でした。


かつての多度津新湛保(港)は大きく改変されて名残りは見つけられません。
今では、新湛保跡の両岸には巨大な埋立地ができて、これらと一体で大きな多度津港を形成していますが、この様子は、多度津山の桃陵公園から一望することができます。
多度津港右側(東浜町)には常石造船のクレーン、左側(西浜町)には今治造船のクレーンが林立しているのが見え、かつての海運拠点の歴史を継承している光景を見せてくれます。


桃陵公園(多度津山)からの港の風景  かつての新湛保は埋立て港湾に取り込まれた


桃陵公園(多度津山)からの町の風景  遠くには丸亀の町と讃岐富士が望める



桃陵公園は、戦国期に香川氏が居館を設けた多度津山一帯を公園として整備したものです。
居館の名残は全く見られませんが、公園北端の山腹にある厳島神社は、かつての古湛保の方向に参道を通じていて、新湛保建設前の多度津の港機能変遷の名残りを感じさせます。

多度津山を貫く桃山隧道(県道21号線トンネル)は旧琴平参宮電鉄の軌道跡です。
昭和38年に廃線となった琴平参宮電鉄は、東浜交差点付近に出発駅である多度津桟橋通駅があり、桃山隧道を通り善通寺・琴平山に向かっていました。
また、桃陵公園の登り口に鳥居がありますが、これは、桟橋通駅の次の鶴橋駅付近にあった金毘羅街道の一の鳥居を移設したものです。


左:桃陵公園(多度津山)  正面中腹に厳島神社がある  右:公園への登り道に移設されている元の一の鳥居


厳島神社  左:急坂の参道  中:本殿  右:旧古湛保の方角を向く




多度津の町の中心は金毘羅宮に向かう南北方向の本町通りです。
そして、これに直行して丸亀へ向かう中ノ町通、この2本の町通りが多度津の骨格を形成していました。

本町通りは多度津新湛保を起点として始まり、多度津の町を出ると金毘羅街道と称されて琴平に通じていた通りです。
沿道建物の建替えはあまり進まなかったようで、本町通りには数多くの町屋が残されています。

切妻平入りツシ二階建てで、一階が格子、二階が漆喰塗込めの重厚な町屋が多く、江戸末期から明治期のものも多く残されているように思いました。
特徴的なのは、明治期ぐらいまでの町屋は、すべて本瓦葺になっていること、そして、二階に海鼠壁の腰壁を回していることで、これらの要素が瀬戸内の港町らしい町並み景観を形成しています。


本町通りの町並み景観




本町通りの町屋  いずれも切妻平入りツシ二階建ての本瓦葺


多度津新湛保付近(現 東浜・西浜)には、かつて花町があったようです。
二階の欄干や細かい桟の引き違い窓などに名残がみられますが、はっきりと判るほどの装飾に乏しく、相当改修されているため、良く見てみないとわかり難いようです。

東浜町の本町通り沿いにある下の建物は、4戸で1棟のメゾネットアパート(建築基準法では長屋?)ですが、外壁のペンキの色と2階の欄干が、何やら艶かしいのは気のせいでしょうか・・・


左:東浜町の本町通り沿いにあるアパート  中右:西浜町にみられる花街の名残り



旧藩主陣屋(家中)と旧武家地(大通り)の一帯には、鉤の手に曲がった道や広い屋敷地と高い庭木など、かつての武家屋敷地の匂いが少しだけ残っています。

また、大通り交差点付近には道路を隔てて2棟の洋館が残されています。
旧楽天堂医院は大正元年建築の木造二階建てで、細やかで凝ったディテールが特徴ですが、山本医院は昭和初期建築の木造二階建てで、硬質で乾いた表情をもつ近代建築です。


藩主陣屋跡地(家中)  沿道の壁と大きな庭木の連なるゆったりした町並み


大通りに残る洋館  左:旧楽天堂医院  右:山本医院

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2009年10月


参考資料
@「多度津物語」多度津町観光リーフレット
A多度津町立資料館展示の各種資料

使用地図
@1/25,000地形図「丸亀」大正3年修測


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