まちあるきの考古学 江戸時代は金毘羅参詣の上陸港 明治以降は四国の鉄道起点 舟運陸運の交通拠点の町
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多度津のまちあるき
江戸時代は金毘羅参詣者の上陸港として、明治以降は四国の鉄道起点として、長らく舟運・陸運の交通要所として栄えてきました。 |
本町通りに残る本瓦葺の屋根と海鼠壁の二階腰壁に特徴がある町屋 |
多度津の歴史
金毘羅参りは江戸時代の民衆にとって一生の宿願だったといいます。 |
多度津の立地条件と町の構造 多度津は讃岐平野の西部にあり、本台山(多度津山・標高93m)の東麓に広がる備後灘に面した港町です。 金毘羅宮の麓を流れる金倉川は金毘羅街道と土讃線に沿うように北流し、多度津と丸亀の中間にあたる中津の地で備後灘に流れ出ています。ここには丸亀藩主・京極高豊による名園・中津万象園があります。 大正3年の地形図をみると、金倉川河口からほぼ等距離に多度津と丸亀が位置していて、この時期、双方の町はほぼ同程度の市街地規模だったことがわかります。 丸亀市街地の沿岸部に見える埋立地は塩田ですが、この地形図は丸亀での塩田造成が最盛期を迎えた様子を示しています。 また、丸亀城を取り囲んでいた武家屋敷地には空き地が目立ち、鉄道駅の設置された町屋町一帯は発展している様子も見てとれます。 一方、多度津市街地の沿岸には、天保年間に築造された新湛保(港)がみえます。 西(左)側の山地は城山だった多度津山で、時代とともに変遷していく丸亀に比して、多度津は大正期になっても江戸時代の姿をそのまま残しています。 多度津はとても小さな港町です。そして不思議な町割りをした町です。 河口付近で大きく蛇行する桜川に守られるように町は広がり、多度津山麓には小さいながら寺町が形成され、江戸後期に設けられた藩主陣屋は、桜川対岸の海沿いに配されていました。 多度津の町割りをみると、大きくS字カーブを描いて流れる桜川の河道がとても不自然に思えます。 桜川は全長7km程の短い河川ですが、河口に位置する市街地は低地にあり、度々の洪水被害に悩まされてきたようで、近年の河川工事により、護岸は改修されて河口の水門は改築されました。 そのためか、小河川にしては川幅が広いのですが、水量は少なく流れもほとんど感じられません。川というより、堀や船溜りと呼んだほうが正確な気がします。
桜川の不自然な河道は、江戸後期の藩主陣屋の建設に伴うものかも知れません。 江戸後期に建設された陣屋と武家地は、現在の町名で「家中」が藩主陣屋、「大通り」が武家地にあたり、この間には堀がありました。この付近の川幅は現在の倍程あったようで、これらは河口の痕跡ではないかと思っています。今の多度津町役場の敷地もかつての河川敷にあたります。 藩主陣屋と武家地が桜川河口に設けられた理由は分かりませんが、このために、桜川は流れを大きく左に転じて多度津山方向に流れることになったのではないでしょうか。 藩主が陣屋に入封した文政十年(1827)から7年後の天保五年(1834)には、新たな多度津湛保(港)の建設が開始されたことは既に述べました。 旧港の古湛保は仲町の桜川左岸一帯でしたが、新湛保は備後灘に波止(突堤)を突出して設けられました。 そのため、一旦、陣屋の手前で大きく左に転じた桜川は、今度は新湛保をかわすように右に転じて、結果的に大きなS字カーブを描くことになったのではないかと思います。 以上、筆者の想像でした。 かつての多度津新湛保(港)は大きく改変されて名残りは見つけられません。 今では、新湛保跡の両岸には巨大な埋立地ができて、これらと一体で大きな多度津港を形成していますが、この様子は、多度津山の桃陵公園から一望することができます。 多度津港右側(東浜町)には常石造船のクレーン、左側(西浜町)には今治造船のクレーンが林立しているのが見え、かつての海運拠点の歴史を継承している光景を見せてくれます。
桃陵公園は、戦国期に香川氏が居館を設けた多度津山一帯を公園として整備したものです。 居館の名残は全く見られませんが、公園北端の山腹にある厳島神社は、かつての古湛保の方向に参道を通じていて、新湛保建設前の多度津の港機能変遷の名残りを感じさせます。 多度津山を貫く桃山隧道(県道21号線トンネル)は旧琴平参宮電鉄の軌道跡です。 昭和38年に廃線となった琴平参宮電鉄は、東浜交差点付近に出発駅である多度津桟橋通駅があり、桃山隧道を通り善通寺・琴平山に向かっていました。 また、桃陵公園の登り口に鳥居がありますが、これは、桟橋通駅の次の鶴橋駅付近にあった金毘羅街道の一の鳥居を移設したものです。
多度津の町の中心は金毘羅宮に向かう南北方向の本町通りです。 そして、これに直行して丸亀へ向かう中ノ町通、この2本の町通りが多度津の骨格を形成していました。 本町通りは多度津新湛保を起点として始まり、多度津の町を出ると金毘羅街道と称されて琴平に通じていた通りです。 沿道建物の建替えはあまり進まなかったようで、本町通りには数多くの町屋が残されています。 切妻平入りツシ二階建てで、一階が格子、二階が漆喰塗込めの重厚な町屋が多く、江戸末期から明治期のものも多く残されているように思いました。 特徴的なのは、明治期ぐらいまでの町屋は、すべて本瓦葺になっていること、そして、二階に海鼠壁の腰壁を回していることで、これらの要素が瀬戸内の港町らしい町並み景観を形成しています。
多度津新湛保付近(現 東浜・西浜)には、かつて花町があったようです。 二階の欄干や細かい桟の引き違い窓などに名残がみられますが、はっきりと判るほどの装飾に乏しく、相当改修されているため、良く見てみないとわかり難いようです。 東浜町の本町通り沿いにある下の建物は、4戸で1棟のメゾネットアパート(建築基準法では長屋?)ですが、外壁のペンキの色と2階の欄干が、何やら艶かしいのは気のせいでしょうか・・・
旧藩主陣屋(家中)と旧武家地(大通り)の一帯には、鉤の手に曲がった道や広い屋敷地と高い庭木など、かつての武家屋敷地の匂いが少しだけ残っています。 また、大通り交差点付近には道路を隔てて2棟の洋館が残されています。 旧楽天堂医院は大正元年建築の木造二階建てで、細やかで凝ったディテールが特徴ですが、山本医院は昭和初期建築の木造二階建てで、硬質で乾いた表情をもつ近代建築です。
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まちあるき データ
まちあるき日 2009年10月 参考資料 @「多度津物語」多度津町観光リーフレット A多度津町立資料館展示の各種資料 使用地図 @1/25,000地形図「丸亀」大正3年修測
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