まちあるきの考古学
高 田   <新潟県上越市>


豪雪地の城下町 日本一の雁木の町並み





まちあるきの考古学 ホーム  ブログ     近くのまちあるきへ  新潟  長野

 

 


 

高田のまちあるき


上越地方の高田は江戸初期に新たに建設された城下町です。
城下町の明快な町割りは、新たな地で計画的な街づくりが行われた証であり、従前の河道を外堀にした高田城は、大坂の陣が間近に迫った時勢の突貫工事によるものです。

高田の町並みの特徴は、何といっても日本一の規模を誇る雁木の町並みです。
豪雪地帯で知られる高田平野。
雁木は、道路が雪で埋もれた時でも歩行空間を確保した一種の出合い歩道ですが、これは豪雪地で暮らす人々の生活の知恵であり、江戸時代から受け継がれてきた町並みの作法ともいえるものです。



 


 

地図で見る 100年前の高田


現在の地形図(平成18年)と約100年前(明治44年)の地形図を見比べてみます。

明治期の地形図をみると、明治19年開設の信越本線高田駅の東側に、南北方向に伸びる旧町屋町が市街地を形成し、城郭周辺に広がっていた武家屋敷地には空地が目立ちます。

代わって、日露戦争後に誘致された陸軍第13師団の関連施設が立地しました。
高田城本丸跡には師団司令部がおかれ、騎兵営、砲兵営、歩兵営などが武家屋敷地跡に配され、旧城下町南西部には練兵場や射撃場の設けられていたことが分かります。
旧城下町の高田は「軍都」でした。

現在の地形図では、信越本線の西側に市街地が広がっている他は、市街地の大きな拡大は見られません。
一方、かつて陸軍施設のあった旧武家屋敷地は住宅地となり、広大な練兵場は住宅、高田商高、有沢製作所の工場などに変わりました。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

高田の歴史


律令時代、越後(現 新潟県)の国府が直江津におかれます。
直江津は高田平野をなす関川の河口にある古くからの港町でした。
鎌倉初期の「念仏停止の勅令」により、法然とともに流罪に処された弟子の親鸞が、直江津に配流されます。付近には越後一の宮居多(こた)神社や五智(ごち)国分寺など、古来からある親鸞ゆかりの社寺が点在しています。

戦国時代、長尾氏、後の上杉謙信に代表される上杉氏が、高田平野の西にそびえる春日山を本拠として越後国を統治します。NHK大河ドラマ「天地人」の前半の舞台となった城山です。

謙信の跡を継いだ景勝が会津に移封させられると、堀秀治が越前北ノ庄(現 福井市)から三十万石で春日山城に入封し、嫡男の忠俊の代には直江津の関川河口部右岸に築いた福嶋城に移ります。その後御家騒動により堀家が改易されると、慶長十五年(1610)に松平忠輝が信濃川中島(現 長野市)から六十五万石で福嶋城に入ります。
忠輝は家康の六男にあたり、徳川家と豊臣家の対立が激化する中で、加賀の前田利常をけん制するため、交通の要所にあたる福嶋城に配されたと考えられています。

忠輝入封の3年後には国役普請(幕命工事)として高田城の築城が始まります。
普請には、伊達政宗を始め、上杉景勝、前田利常、蒲生氏郷、最上家親など13にも上る大名が動員され、外堀を含めると約60haを超える大城郭が、わずか4ヶ月で完成したといわれています。
大坂の陣を間近に控え、前田氏や上杉氏など秀吉の旧重臣を牽制し、江戸の背後を固めるためだったようです。

忠輝は高田城に移った2年後に改易となり、以降、高田城には、酒井家次(十万石)、松平忠昌(二十五万九千石)、松平光長(二十六万石)、稲葉正往(十万三千石)、戸田忠真(六万八千石)など親藩、譜代の大名が相次いで入封しますが、要衝の地でありなが左遷場所のような扱いを受けます。その後に松平(久松)家が5代30年続いた後の寛保元年(1741)に榊原家が十五万石で入ると、ようやく藩政は安定して維新まで続くことになります。

戊辰戦争では、越後諸藩の中では比較的早く新政府側への恭順姿勢を見せたため、長岡や会津攻めの先鋒となり大きく貢献しました。その後、高田藩は廃藩置県により高田県となり、後に新潟県に編入されます。

維新以降、高田は政治の中心としての地位が低下しますが、明治後期からは陸軍第13師団を誘致して軍都として歩みを始めます。
日露戦争において、日本陸軍は従来の師団すべてを満州に動員したため、本土駐留師団がなくなる事態に陥り、新たに4個師団が編成されます。
その一つ、第13師団が高田におかれます。師団司令部などの軍事施設は高田城址と旧武家屋敷地、兵舎や陸軍病院、錬兵場が城下町の南側に位置する南高田や中田原に配置されます。

明治19年に信越本線の高田駅が開設され、明治26年には高崎(群馬県)までが全通して東京と結ばれます。一方、大正2年には北陸本線が終点の直江津まで全線開通して関西圏とつながり、今の鉄道網が完成します。

江戸初期に高田城に政治中心が移って以来、直江津は高田藩の外港として、明治以降は鉄道拠点の都市として発展してきました。昭和40年に高田市と直江津市をむすぶ国道18号線が開通したことを契機に、その6年後に両市は合併して上越市となりました。
直江津との合併後には市役所などの官庁、公共施設、上越教育大学などが、高田と直江津の中間地区にある春日山付近に集中して立地してきました。
その後の再度の合併を経て、現在、上越市は人口20万人を要する新潟県下第3の都市となっています。

 


 

高田の立地条件と町の構造


越後国(現在の新潟県)の南部一帯は上越地方と呼ばれますが、律令制においては頸城(くびき)郡に属していました。

越後頸城郡と信濃国(長野県)を隔てるのが頸城山系(妙高連峰)で、その麓には赤倉、燕、池ノ平などの温泉場とスキー場が集まることで有名な妙高高原があります。頸城山系が北に連なり西頚城山地とよばれ、日本海にあたった場所にそびえるのが春日山で、戦国時代に上杉謙信が山城を築いて越後を治めたことは広く知られているところです。



また、妙高高原は日本有数の豪雪地帯としても知られ、この雪解け水を集めた関川は、妙高山南麓を東に回りこむように流れ、高田平野(頸城平野)を北流して直江津で日本海に注いでいます。
城下町・高田は河口から8km遡った関川下流の左岸に位置しています。

高田平野には、関川を始め数々の小河川が蛇行を繰り返して流れていましたが、その痕跡は平野の各所に認められ、高田城の外堀も関川と矢代川の蛇行跡を利用したものといわれています。




高田城下町は、直江津にあった福嶋城下町を移転し、新たに計画的に造られたため、町割りは碁盤目状に整然とし、明快な土地利用ゾーニングをもっていました。

高田城郭を中心として武家屋敷地が四周を囲み、その東を悠然と流れる関川は天然の外堀として機能し、西側には青田川と儀明川そして北国街道に平行して町屋町が位置しています。
町屋町の外側を再び武家屋敷地が狭い幅で連なり、この西端には寺町が南北に細長く配されていました。
町屋町外側の旧武家屋敷地に信越本線が貫通して、その中央部に高田駅が置かれています。

江戸初期の築城時、関川、青田川、儀明川などの河川が蛇行しつつ合流していた菩提ヶ原とよばれた場所に城下町は築かれました。
築城時の土木工事により、三河川の河道は付け替えられて、現在のようになったようですが、町中には沢山その痕跡を見つけることができます。




築城時の河道改変の名残り

大町にある師団長官舎の裏には、儀明川の築城前の河道跡が残っています。現在、旧町屋町を一直線に縦断している儀明川は、築城前はこの付近で青田川に合流していたようです。

師団長官舎は、明治43年に建築された瓦葺切妻屋根をもつ下見板張の木造二階建てですが、二階腰壁に縦板張りを用いてアクセントにして、ペディメント(破風)をハーフティンバー風を見せるなど、なかなか瀟洒なファサードをもつ洋館です。平成5年に現位置に移築されました。


築城前に儀明川が青田川に合流していた場所  儀明川旧河道がくっきりと残っている


左:儀明川の旧河道 周囲より一段低い空地で残る   右:旧師団長官舎


武家屋敷地と町屋町を分けていた青田川は、南本町付近で大きく直角に曲がっていますが、これは築城時に河道を改変した跡と思われます。また、南土橋の付近には土塁が残っていますが、これは青田川を掘削した土砂を内側に盛り上げ、青田川を大外堀としたのだと思います。

現在、青田川護岸は玉石と土手で再整備されていますが、築城当時の風景を再現しているようです。


青田川  左:丸石積みと土手の護岸で再整備   右:樹木で見えないが林中に土塁が現存する



自然地形を生かした高田城

高田城には石垣がありません。

一般的に、西日本の城郭には石垣が多用され、東日本のそれには少ないといわれます。高田はその中間に位置していますが、城内には石垣が全く見当たりません。

高田城は周囲を土塁で囲まれた平城で、本丸は一般的な城郭とは違って周辺より低い場所にあり、天守に相当する三重櫓(再建)も内堀沿いの土塁上に置かれました。

幕命により僅か4ヶ月程の短期間で築城された高田城は、当時の関川河道をそのまま外堀として利用し、関川の堆積作用による自然堤防の上に本丸を配置したといわれています。
そのため、現在みられるように、外堀は幅広く緩やかな曲線を描き、本丸は微高地に位置するようになりました。


土塁の上に建つ三重櫓(再建櫓


周囲との比高は10m程度しかなく、石垣は一切積まれていない


碁盤目状の整然とした町割りの城下町に対して、外堀で縁取られた高田城郭の自然な形が、地形図から読み取れる高田城の特徴です。

現在の外堀は一面蓮池になっています。
予備知識を全くもたずに訪れた筆者は、広い水面を覆い尽す見渡す限りの蓮の葉に度肝を抜かれました。聞くところによると東洋一の規模だそうですが、開花時期を少し過ぎていたのが残念でした。




外堀を覆いつくす蓮  堀は浅く広い  ここにも石垣は見られない



寺町の風景

高田城下町の寺町はJR高田駅の西側一帯に広がっています。

重要文化財である浄興寺をはじめ66ヶ寺もの寺院が建ち並び、街の喧騒とは離れた寺院と樹木や緑の多い町並みが約2kmにわたって残り、全国的にも珍しい大規模な寺院群となっています。

現在みられる寺院の配置は、寛文五年(1665)の地震で罹災後の復興によるものと考えられています。それぞれの寺院は整然と二列に甍を連ね、そのほとんどが高田城の方角を向き、東面しています。
また、寺町には各宗派の寺院が混在していますが、浄興寺など約6割を浄土真宗寺院が占めています。これらの寺院はほぼ宗派毎にエリアにまとめられており、当時から建築様式や宗教空間といった景観デザインが施されていたことが伺えます。戦後、多くの寺院境内に民家が建ち並びましたが、今なお緑が多く残されていることも寺町の特徴としてあげられます。


左中:浄土真宗寺院 浄興寺  右:JR高田駅の横にある日枝神社


寺町の寺院配置  大部分の寺院が城方向(下方向)を向いている


寺町の風景  右:土塀等はなく緑が多い  左:民家と区別の付かない寺も多い



雁木の町並み


高田城下の町屋町には、仲町通り、本町通り、大町通りの3本の並行する通りが南北2kmにわたり直線に延びることで構成されています。

信州から関川沿いを通ってきた北国街道は、城下に入ると本町通りとなって雁木の町並みを見せた後、宇賀魂神社前で奥州街道を分岐して、儀明川を渡って直江津方面に抜けていきます。奥州街道は城下町北端を屈曲を繰り返しながら通り抜け関川を渡って長岡、新潟方面へと続いています。
城下町を逆コの字で囲むように配置されていました。



「この下に高田あり」

平野部の都市では群を抜く積雪量を誇る高田では、あまりの大雪で家並みが埋もれてしまい、旅人のためにこう書かれた高札が立てられたと言われています。

そんな豪雪の町に生まれたのが「雁木」でした。

雁木は雪国における冬期の通路として造られたもので、新潟県だけでなく、東北から山陰までの広い範囲に分布していました。呼び名は地方により異なり、東北地方の盛岡、弘前、黒石などでは「こみせ」、米沢、鶴岡、酒田では「こやま」と呼ばれています。
明治以降、時代と共に消滅していった町が多い中で、高田には今日でも日本一の長さの雁木通りが残っていて、高田の町並みの象徴となっています。

江戸中期の記録によれば、高田城下町で雁木が作られたのは、江戸初期の松平光長の治世といわれます
寛文五年(1665)真冬の大地震では、4mを越える積雪の重みが加わり、城下町全体が壊滅的打撃を受けました。当時の家老小栗美作が、幕府から借りた資金で城下町の復興を行いましたが、この頃に雁木が整備されたといわれています。


高田の町中に今も残されている雁木の町並み



高田の町屋町には「雁木が残されている」と述べましたが、「雁木の伝統が受け継がれている」といった方が正確だと思います。
通り沿道の建て替えは相当進んでいるようで、江戸から明治期にかけての伝統的町屋は余り残っておらず、切妻平入りで暖勾配のトタン葺き屋根にサイディング外壁の家屋が数多く見られました。
もしかすると、明治大正期に建てられた町屋が改造されているのかも知れません。

高田の雁木は、沿道の家屋から長い庇が伸びて、その下が歩道として開放されているのが基本構造です。
アーケードとは基本的に異なり、雁木の屋根は主屋の庇であって、隣家の雁木とは繋がっていません。そのため、家屋が一軒ずつ構造や外観が異なるように、雁木のほうも、屋根の高さ・勾配・材質・色などは雁木ごとにまちまちになっています。
そのため、町並みに統一感はみられず、歩道の舗装も不揃いで歩き難いようです。


沿道家屋と同じく雁木の構造や外観もバラバラ


雁木歩道の幅は1〜2mで快適な歩行空間とはとても言えない


すべての沿道家屋はとにかく雁木を設けている


雁木の町並みで統一されているのは、1〜2m幅で連続していること、自らの敷地を公共空間として提供していること、この2つだけのようにも感じます。
これが江戸初期から現在まで、沿道家屋が建て替わる度に営々と受け継がれてきた伝統、街づくりの作法といえるものです。

雁木の大きく分けて「造り込み式雁木」と「落し式雁木」の2種類あるといわれます。
「造り込み式雁木」は二階建て家屋の一階部分を歩道として開放したもので、江戸時代にはこの形式が主流だったといいますが、明治期以降は、母屋から庇を伸ばした「落し式雁木」が主流になり、現在見られる雁木のほとんどがこれに該当します。


今井染物屋は江戸後期に建築された商家で、高田に残る数少ない「造り込み式雁木」です。
屋根や外壁は相当改変されているようですが、雪国の商家にしては部材が細めで軽量感が印象的な建物です。

町家交流館「高田小町」は、立派な棟と鬼瓦を頂く重厚な大屋根が印象的な商家ですが、屋根には煙出しらしきものが見え、明治期の建物を綺麗に再生したもので観光施設として活用されています。


左:今井染物屋   右:高田小町(観光案内施設)


明治末期に陸軍第13師団を誘致した頃から高田の町には西洋風の旅館や娯楽施設が建築されたようです。本町通りの六丁目付近には明治末期から昭和初期にかけて建築された洋風建築が残っています。

明治44年に芝居小屋「高田屋」として建てられた高田日活映画館は、現役映画館としては日本最古の建物だそうで、白い塗り壁に軒飾りやアーチ窓をあしらったデザインが印象的です。

明治38年建築とされる牛肉販売兼洋食店(現 電気店)は、2階の飾り窓や軒裏がお洒落な洋風木造建築です。特に2階縦長窓のうち、右側が上げ下げ窓、左側が観音開き窓(に見える)、中央が引き違い窓(に見える)、と遊び心満点の楽しいファサードをもっています。


左:高田日活映画館   右:牛肉販売兼洋食店 1階は改造されているが、2階は往時の様式を残している


青山徳心商店は、沿道店舗部分が昭和初期建築の重厚なRC造で、シンメトリでルネサンス風のデザインが目を引きますが、特に巻込み式のシャッターらしきものが内側に付いているのが印象に残りました。奥の母屋は木造建物ですが、サイケデリック(?)なサッシやハイサイドライトの小窓がみられて、これも遊び心一杯の洋風建築です。


青山徳心商店


最後に、雁木の町 高田ならではの駅前の風景を紹介します。

高田駅周辺の本町通りや駅前通りには雁木風のアーケードが整備されています。
瓦葺屋根と大窓をもった外観は雪国らしく重々しいのですが、細身の梁とテンション金具で構成された小屋組みは、明るく軽快で新しい雁木の形を提案しています。
また、駅前には12階建ての高層マンションがそびえ立っていますが、オフホワイトとライトグレーを基調として水平線を強調したデザインは高さを押さえる工夫が見られます。


JR高田駅前の高層マンションと雁木風アーケード  外観は厳しく重々しいが内観は明るく軽やか


最も戴けないのがJR駅舎のデザインでしょう。
城下町をイメージしたデザインだそうですが、正面からの高さとボリューム感をやたらと強調した屋根は、一体全体何を意図したのか・・・よく分かりません。


JR高田駅舎

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2009年7月


参考資料
@「高田まちなみ歴史散策」(リーフレット)上越市
A「城下町 高田さんぽ」(リーフレット)
B「地図で読む百年 中部U」古今書店
C「歴史の町なみ 関東・中部・北陸篇」NHKブックス
D「日本図志大系 中部U」朝倉書店

使用地図
@1/25,000地形図「高田東部」「高田西部」平成18年修正
A1/50,000地形図「高田東部」(平成10年修測)「高田西部」(平成3年修測)「柿崎」(平成9年修測)
B1/50,000地形図「高田東部」「高田西部」「柿崎」明治40年測図


まちあるきの考古学 ホーム