新 潟
信濃川河口の2つの港町を起源とする町
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新潟のまちあるき
新潟市街地は、信濃川河口にあった新潟町(古町)と沼垂町の2つの港町を起源としています。 |
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地図で見る 100年前の新潟 現在の地形図と約100年前(明治44年)の地形図を交互に表示して見比べてみます。 明治期の地形図をみて分かるように、新潟市の起源となった新潟町(古町)と沼垂町の2つの港町は信濃川を挟んで対峙していました。 現在、新潟市は人口80万人を数える政令指定都市であり、2つの町は大きく拡大した市街地の中に埋没して、存在が分からなくなっています。 2つの地形図を見比べると、地形が幾つか大きく変化しているのが見てとれます。 一つは信濃川の川幅が狭くなっていることです。 そのため、両方の河岸がせり出して市街地が広がり、中心部に架かる万代橋が半分以下の長さになっています。 二つ目には、日本海側の汀線が後退していることです。 砂浜が無くなり、日和山という海岸砂丘にできた標高20数メートルの小山まで海岸線が迫り、元の海岸線の位置に離岸堤が設置されています。 三つ目には、鉄道路線が敷設変えになり、新潟駅が移転していることです。 沼垂町をぐるっと取り囲むように走っていた鉄道は、スッキリした路線になっています。 これらの大きな地理的変化については詳しく後述します。 |
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新潟の歴史
2つの町を起源とする新潟 |
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新潟の立地条件と町の構造 新潟平野(越後平野)は、信濃川や阿賀野川などによって形成された、日本海に沿って細長く広がる沖積平野です。 平野北部に飯豊山地(いいでさんち)、南部には越後山地が接し、この間の渓谷を縫って阿賀野川が新潟平野に流れ出ています。また、信濃川は、小千谷付近で越後平野に流れ出て、東山丘陵を右に、東頸城丘と陵弥彦山山塊を左にみて北流して、阿賀野川とともに平野中央部に位置する新潟の地で日本海に注いでいます。
海岸砂丘と内陸湿地帯で形成された新潟平野 新潟平野の特徴は、日本海沿岸に長大な海岸砂丘が横たわり、内陸部には広大な低湿地帯が広がっているところにあります。 沿岸に連なる砂丘に出口を阻まれるため、平野を流れる河川は限られた場所に河口を集中させてきました。 日本一の信濃川はもとより、阿賀野川も会津と中越地方を流域とする日本でも十指に数えられる大河ですが、現在、新潟から5kmほど北方にある河□は、江戸中期まで信濃川と同じ場所で日本海に注いでいたのです。 そして、この水はけの悪い地形は、内部に広大な湿地帯を抱え込みました。 信濃川下流の右岸一帯は、かつて「地図にない湖」とまでいわれ、水田は泥沼のような湿田で、田舟が行き交い、農作業には腰まで泥に浸からねばならなかったといい、しばしば発生する河川の氾濫の度に大きな被害を出してきました。 明治44年の地形図には新潟の地形的特長がよく表れています。 海岸線と信濃川流路に平行に、集落が線状に連なっているのが見えますが、これはかつての海岸砂丘の名残りに集落が立地したものです。 信濃川と阿賀野川が上流から運んだ土砂は、沿岸流と海風に押し戻されて河口付近に線状の砂丘を造り、その内側には入り江が形成されます。 このような入り江を「潟(かた・ラグーン)」といいますが、ここに土砂が堆積することで陸地(湿地帯)となり、この砂丘の形成を沖合いに向けて繰り返すことで新潟平野は面積を広げてきました。 現在、新潟平野において確認できる砂丘は、海岸線とほぼ平行する形で10列存在しているそうで、砂丘列と砂丘列との間は、入り江なのか陸地なのか判然としない「超」湿地帯の状態が長く続いていたようです。 そのため、砂丘上に人家が建てられたため集落が線状に形成されたというわけです。
明治期の地形図には、現在も残る「鳥屋野潟」の他に「小潟」、「長潟」、「鍋潟」、「焼嶋潟」などの地名が見られますが、これらは砂丘列の間にあった入り江の名残りなのです。 そして、信濃川と阿賀野川は、自ら運んだ土砂が海岸砂丘を造りだし、それが堤防になることで出口を失い、平野部を彷徨うように流れて、新潟でようやく日本海に流れでていたのです。 分水路掘削と排水干拓 このような低湿地帯が、現在のような穀倉地帯に生まれ変わるには、河川の氾濫を抑えて内水を排除するという、越後の人々の絶え間ない努力がありました。 分水路の掘削により二大河川の河口を分散して洪水を抑え、低湿地帯を排水して干拓することで、湿地帯は乾田化へと変わったのです。 阿賀野川は江戸中期まで信濃川と河口を同じにしていましたが、享保年間(1730頃)に新発田藩が出水調整用に松ヶ崎の砂丘(現 松浜)を開削した放水路が、春の融雪と夏の洪水で決壊し、川幅が拡大して固定したことで現在のように河口となりました。 焼鳥潟とそれに東から注ぐ通船川は、阿賀野川の旧河道にあたります。 一方、信濃川は2つの分水路の開設により河口が分散されます。 明治末期に起工された大河津分水路は、河口から約55km遡った場所に延長9kmの水路を開削したもので、当時、東洋一の大工事といわれましたが、13年の歳月をかけ、2,880万m3もの土砂掘削により、大正11年に通水をみます。 もう一つの関屋分水路は、河口の上流約9kmの場所で延長2kmの水路が開削されて昭和47年に通水します。 いずれも海岸砂丘を横断して掘削したもので、当時の最新土木技術を動員して工事が行われたようです。 2つの分水路の開通により、信濃川河口付近の水量は激減して川幅が大きく縮小します。 大河津分水の分岐点にある長岡では1km近い川幅がありますが、支流を合せて水量の増す最下流の新潟では最も狭くなり、現在の万代橋も明治19年に架橋された初代万代橋に比べて1/3程度の長さになっています。
低湿地帯の排水 信濃川、阿賀野川、通船川、小阿賀野川に囲まれた地域は亀田郷と呼ばれてきましたが、その中心にあるのが鳥屋野潟です。 前述したように、かつて新潟平野には数多くの潟がありましたが、その中でも最大のものが鳥屋野潟で、現在も残されています。沿岸一帯は新潟スタジアム(Jリーグのアルビレックス新潟ホームスタジアム)をはじめ、野球場、図書館などが集積した総合公園として整備され市民の憩いの場となっています。 鳥屋野潟は約190haの面積がありますが、水深は深いところで2.0m程度の浅い潟湖(せきこ)で、亀田郷の雨水はほぼ全てここに集まっています。 そして、この水を如何に信濃川と阿賀野川に排水するかが乾田化の大きなテーマでした。 明治28年に沼垂の町中を流れる栗ノ木川の放水路として新栗ノ木川が開削されたことを手始めに、蒸気機関や電動機式の排水機が各地に導入されますが、乾田化が実現するのは、昭和23年に当時東洋一といわれた栗ノ木排水機場が運転を開始してからでした。 昭和43年には鳥屋野潟西方の信濃川沿いに完成した親桧排水機場が排水の基幹施設として稼動し、現在では親松排水機場の隣に鳥屋野潟排水機場が増設され、将来の排水能力増強を見据えた排水樋門の建設が行われています。
地盤沈下と砂丘後退 潟湖の低湿地帯が穀倉地帯に変わったのは、分水路開設による河口分散と排水機場の建設という、最新の土木技術を活用した人間の所作でしたが、一方で、人間の技術は、昭和の時代にはいり、天然ガス採取に伴う地盤沈下と信濃川河口の海岸侵食という、新たな自然環境の改変をもたらします。 @ 地盤の沈下 昭和30年代に新潟地域において、水溶性天然ガスの採取に伴う地下水の大量揚水を原因として、年間最大沈下量が54cmにも及ぶ著しい地盤沈下が顕在化したことは既に述べました。 塩分を含んだ水を「かん水」といいますが、地下100〜1000m程度にあるかん水には天然ガスが大量に溶けていることがあり、地上へ揚水することで減圧し、その圧力差で天然ガスを気体に戻し回収することができます。つまり、地下水(かん水)を汲み出すだけでガスを容易に取り出せるため、水溶性天然ガスは、北海道や新潟県、千葉県などで古くから採掘されてきました。 上の図に見られるように、沈下観測の始まった昭和32年から約50年間で60cm以上沈下した地域は、信濃川河口を中心として海岸沿いに2〜3kmの範囲に広がっています。 このため、海岸沿いの突堤や導流堤が沈降して、高潮や洪水の危険性が増したため、その後、汲み上げ水の地下還元圧入や地下水の採取規制などが行われてきました。近年では、最大で年間1〜2cmの沈下に収まり沈静化はしているものの、未だに500km2に渡る地域で微量ながらも沈下継続が報告されています。 A 海岸線の後退 信濃川河口の海岸侵蝕については、明治期の地形図と現在のそれを比較するとよく分かります。 具体的には、昭和初期の調査(徳重英助氏の論文)によれば、明治34年からの26年間に750ft(約230m)もの海岸後退があったとされ、昭和50年頃の調査(荒巻孚氏の論文)では、61年間で340mの海岸後退があり、年間平均で5.6mの後退と指摘されています。 海岸侵蝕の原因としては、 1)信濃川河口での突堤築造による海岸流の変化 2)新潟港内の浚渫による堆砂量の減少 3)信濃川のダム建設と大河津分水路完成による運搬土砂量の減少 などが挙げられ、いずれも信濃川に対する人為的な所作の結果だといえます。 その後、河口から西海岸の日和山までは縦堤と離岸堤が築かれ、徐々にではありますが砂浜が回復しているといいます。 それにしても、200〜300mも汀線が後退したとは信じがたいものがありますが、実際に海岸砂丘上に立つとそれが実感できます。 日和山近くにある栄小学校の裏手には、高低差20m近い急崖が続いていますが、その崖面には数十年かけて砂丘が数百mも削られた名残りを生々しく見ることができます。 どんよりして波高い日本海と荒々しい崖地は、厳しい自然環境にある新潟の象徴のように思えました。
新潟の町の基本構造 海岸砂丘と低湿地帯という地形、河口分散と排水による絶間ない干拓化、そして地盤沈下と海岸侵食。 このような立地環境に新潟の町は成立しました。 新潟の町の基本的な構造は次の要素で成り立っています。 1)信濃川と阿賀野川旧河道 2)白山神社と日和山を起点とした町通りの新潟 3)沼垂白山神社を中心とした沼垂 4)新潟・沼垂と旧新潟駅を結ぶ軸線と万代橋 1)信濃川と阿賀野川旧河道 江戸中期まで阿賀野川の河口は、沼垂の先の蒲原(現 竜が島付近)で合流していて、現在の通船川は河道の名残りであることは既に述べましたが、明治期の地形図でも分かるように、二大河川は互いにぶつかるように合流しているので、合流点は川幅が広く澱んでいたのではないかと思われます。 下図は明治44年の地形図に、当時現存していた堀や河川を着色したものです。 現在の入船町や湊町、礎町の一帯は旧阿賀野川の流れの先に位置していますが、これらの町は堀割りや街路構成が古町とは異なるので、もしかすると、地図上の萬代島のように、かつては信濃川河口にあった砂州の一つで、阿賀野川河口が付替えられた江戸中期以降に陸地化が進み、新潟古町の一角として町割りされたのかもしれません。 現在の新潟市街地は、旧新潟町(古町)と旧沼垂町が、ともに信濃川と阿賀野川の河口に立地してその起源となりました。
2)沼垂町 二大河川の合流点に位置していたのが沼垂町でした。 大和政権の東北進出の拠点として大化三年(647)に「渟足柵(ぬたりのき)」が設置されたことが日本書紀に記されているそうで、沼垂という地名との関連が指摘されていますが、正確には明らかにされていません。 町の中心を串刺すように栗ノ木川が流れていたことが明治期の地形図から読み取れますが、明治期に放水路としての新川が町の東側を迂回するように開削され、今では栗ノ木川は埋立てられて「栗の木バイパス」という6車線の広幅員道路となっています。 沼垂のヘソは旧栗ノ木川沿いにあった沼垂白山神社です。 沼垂郡の総鎮守として創建されたと伝えられる社の起源も、町と同様に相当古く、遷宮を繰り返して記録も失われているために詳細は不明だそうですが、貞享元年(1684)の絵図には、すでに現在地に記載されているそうです。 白山とは加賀・美濃・越前の三国にまたがる2700m級の山塊の総称ですが、雪を冠した山容が有名で、富士山・立山とともに、古来から日本の三霊山とされてきました。 富士山信仰の浅間神社と同様に、白山神社は白山信仰を源流とするもので、全国に2700社あるとされています。白山を中心とした地域に多く存在し、新潟市内にも古町の白山神社など8社あるそうです。
町中では普通の市街地風景が見られるだけですが、所々に下目板張りの古家が見られるのは、かつての港町の名残なのかもしれません。 旧沼垂町の東側には法光院など7ヶ寺が集まって寺町を形成していますが、その真ん中に沼垂朝市があります。 昭和40年頃、旧栗の木川から通船川方向に流れていた水路を埋め立てた跡地に開かれたもので、今でも日祝日を除く毎日早朝に市が立つそうです。 朝市と寺町の向うには新日本石油新潟事業所の煙突が林立して煙を出していますが、ある意味、この風景が新潟を代表する景色なのかもしれません。
3)新潟町 新潟の人々は古町界隈を「柳都」とよびます。 かつての新潟は、八百八橋と称えられた水の都で、明治中期まで三十近い堀が町中を縦横にめぐり、堀沿いには柳並木が植わり、堀には百数十の橋が架かっていました。 そして、江戸期に北前船の寄港地として賑わった新潟には、文人墨客や政財界の主役達が日本中から集まり、古町は京都祇園、東京新橋とならぶ日本三大芸妓の街として活況を呈したといいます。 堀べりの柳の並木道を、旦那衆が闊歩し、芸妓たちが御座敷へと向かう、これが港町新潟を代表する風景だったのです。柳は、隆盛を誇った新潟の花町文化の象徴でした。 しかし、堀の水質が年々汚濁して衛生の問題がとりあげられ、市内の道路網整備の必要性もあって、堀は年々埋立てられていき、昭和30年の新潟大火の復興にあたっては、多くの堀が道路拡幅のために埋立てられ、最後まで残っていた白山神社付近の一番堀や宮の堀も、昭和39年の新潟国体の前までには完全に埋立てられました。
「柳都」新潟の町の構造はとても単純で合理的にできています。 日和山住吉神社を東北端、白山神社を西南端として、その間を4本の町通り(西堀町・古町・東堀町・本町)と2本の水路が走り、これに平行して北側に寺町が配置されています。
日和山は、その字の如く日和(天候)を見る山で、船乗り達が船を出すか否かを決める際に、天候を見て、海の様子を眺めた、日本各地の港町によくある小山の名前です。 新潟の日和山も周囲から独立して一段と高くなっていて、信濃川河口から日本海までが見渡すことができます。 日和山には、航海の神様を祀る住吉神社が鎮座していますが、まちあるきの日は住吉神社の例大祭りの前日だったらしく、地元の人達が忙しく準備に追われていました。
一方の白山神社は新潟町の総鎮守であり、創建は平安中期に遡るとされる古社ですが、江戸初期に新潟町が現在地に移転した頃と同じ時期に遷座したと伝えられ、本殿は正保年間(1640頃)の建築とされています。 広くない古町一番町のアーケードを抜けると、大通りの向こうに大きな朱の鳥居が見えますが、これが白山神社の一の鳥居です。 かつて、大通りには一番堀とよばれた堀があり、鳥居の前には橋が架かっていたそうです。 一番堀の河岸には米倉が並び、信濃川から長船が入ってきといい、町を縦断していた東堀と西堀は一番堀を起点としていました。 現在、白山神社の南側に位置する陸上競技場や芸術文化会館のある白山公園は、明治期以降における信濃川河岸の埋立地であり、それまで白山神社は信濃川沿いにあり、新潟町の入口に当たる場所にあったのです。
日和山の住吉社と白山神社を結ぶのが古町通りです。 古町の範囲は、狭義では東西の古町通りに面する商店街地域を指しますが、広義としては、古町通りを中心に南は本町通りから北は西堀通りまでの広い範囲を指し、新潟市の商業中心地域を形成しています。 古町一帯の街路は、古町通り、東堀通り、西堀通りなどの「通り」と、これに直交する柾谷小路、新津屋小路、坂内小路などの「小路」からなっています。 そして、古町のヘソが、古町通りと柾谷小路との古町交差点になりますが、日本三大芸妓の町として知られた新潟花町の伝統を引き継ぐように、現在でも古町一帯は新潟最大の繁華街となっています。
この付近には、かつて大和デパート、小林デパート(現 三越)、新潟市役所(現 NEXT21)などが立地して、古くからの新潟の中心地として栄えてきましたが、その象徴的な施設が、西堀通りにある「西堀ローサ」という日本でも珍しい地下街です。 西堀ローサは、地下街としては日本海側では随一の規模といわれますが、地下街でありながら、地下鉄などの鉄道駅とは全く無関係の単独の地下街で、全国的にも大変珍しい形態となっています。 昭和51年に開設された西堀ローサは、最近まで若い女性向け衣料品、雑貨店が軒を連ねていましたが、郊外型の大型ショッピングセンター進出などの影響で空洞化が進み、現在は46店舗中の半数以上が閉店して「シャッター街」状態となっています。
町割り当初からの4本の通りの内、最もノスタルジックを感じるのは本町通りです。 ここの通りには堀がなかったので、西堀通りに比べると道幅が狭く、雁木のようなアーケードが連続しています。「フレッシュ本町」の新しい看板も目立つのですが、店はどれもシャッター状態で、かつては賑わったのであろう痕跡にあふれていました。
明治期の地形図をみると、この頃は川端町通りが信濃川河岸だったことが見て取れます。 今でも、通りには道路付けや沿道建物に河岸の名残が見られます。 明治期以前からの市街地には狭い路地が川端通りに出ていて、明治期以降の埋立て地の道路とは明らかに違いがあります。 また、沿道に古い民家が幾つか残っていますが、かつての船宿だったのかも知れません。 寄棟二階建ての板張りで、屋根とは別に2階にも庇が付いていて、2階の天井が高いのが特徴です。 奥に鉄製外壁(にみえる)に防錆塗装した蔵をもつ民家もあり、今回のまちあるきで唯一見つけた古い町並みでした。
西堀通りの外側には寺町が配され、通りに沿う形で幾つもの寺院が一列に並んでいます。 政令指定都市の都心繁華街にありながら、寺町は往時の形を驚くほど良く残しています。それはNEXT21(旧新潟市役所跡地)の展望室から見るとよく分かります。 寺の本堂はどれも同じ大きさで、しかも、ほぼ一直線に配置されているのが分かり、その周囲には同規模の墓地がみえます。各本堂の屋根はほぼ同規模で、大部分が建て替わっていないことも驚きです。 もしかすると、ある時期に一斉に建築されたのかもしれません。 また、境内の出入り口はどれも西堀通りに面しています。 間口約5mの出入り口が、そのまま参道がになっている場合と公共道路になっている場合がありますが、西堀通りに面していることは変わっていません。
4)旧新潟駅と万代橋 信濃川と旧阿賀野川(現 通船川)の合流地点に形成された新潟と沼垂の2つの町を起源として、現在の新潟市街地は発展しました。 明治37年に開設された旧新潟駅は、新潟町と沼垂町の壮絶な誘致合戦の末に、折衷案として両町の中間、現在の弁天公園(南万代町)付近におかれます。そして、旧新潟駅と新潟町を繋げたのが万代橋で、沼垂には現在の流作場五差路交差点から東に延びる東万代町の通りでした。 万代橋は、昭和39年の新潟地震の激震にも耐えて落橋しなかった逸話を持つ堅牢な名橋として知られ、昭和初期における大規模なコンクリートアーチ橋の貴重な現存例です。現在の橋は三代目にあたり、幅22m、全長300mの規模をもち、6つのアーチを連ねる橋の側面には御影石の化粧板を施す優美な外観が特徴です。 明治19年に架橋された初代の万代橋は、木造で幅7mながら全長が800m近くもあり、開通時は日本最長だったといいます。当時、信濃川の川幅が現在より遥かに広かったためですが、大正11年の大河津分水の完成により、分水下流の信濃川の水量は著しく減少したため、新潟市内の川幅を約3分の1に改修する工事が行われました。
万代橋の東詰一帯は江戸時代から「流作場(りゅうさくば)」とよばれていました。 「作場」とは耕作地のことですが、河川や湖沼の沿岸部に開かれた新田(作場)は特にこう呼ばれました。 新潟市の流作場には、かつて新潟交通の車庫や車両整備工場、天然ガス井などがあり、新潟交通バスステーションビル(通称:バスビル)が昭和26年に開設されるなど、新潟交通のバス拠点となっていました。 ここが再開発され。新潟の新たな商業集積地「万代シティ」として生まれ変わったのは昭和48年でした。その後も順次新たな施設がオープンし、増改築を続けて、現在のような新潟一の商業施設となりました。 新潟伊勢丹、LoveLa万代やビルボードプレイスの専門店街、万代シテイバスセンター、レインボータワー(展望台)など、様々な施設がペデストリアンデッキによって繋がり、米国のショッピングセンターを模範とした当時としては先進的な商業施設でした。 特に、シルバーボウルビル横にはファーストフード店が軒を連ね、大きなケヤキ並木の柔らかな緑に包まれている風景は、アメリカ西海岸の香りが漂います。
明治期の地形図をみると、弁天公園辺りにあった旧新潟駅から沼垂町まで、一本の道路で繋がっていたことが分かります。これが、現在の流作場五差路交差点から東に延びる東万代町の通りでした。 通りには今でも両側の歩道にアーケードが架かっています。 錆びた鉄柱と折れ板屋根のアーケード、そして閉まったシャッターが長々と連なり、その先には煙を吐き続ける新日本石油の煙突が数本。この風景は高度成長期までこの通りが活況を呈していたことを物語ってくれます。
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まちあるき データ
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まちあるき日 2009年10月 参考資料 @「地図で見る百年前の日本」小学館 A「中部U 地図で読む百年」古今書院 使用地図 @1/25,000地形図「新潟北部」「新潟南部」平成13年修正 A1/50,000地形図「新潟」明治44年修測
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