まちあるきの考古学
村 上   <新潟県村上市>


質素で慎ましい 越後最北の小さな城下町





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村上のまちあるき


村上は、越後新潟と庄内鶴岡を結ぶ羽越街道が通る、越後(新潟)平野の最北端に位置する城下町を起源としています。
城郭の堀割りや土塀の武家地、豪壮な商家などは殆ど見ることができませんが、こじんまりとした町に残る茅葺の旧武家屋敷には、質素で慎ましい武家の住まい方を見ることができます。


 


 

地図で見る 100年前の村上


現在の地形図と約100年前(大正2年)の地形図を交互に表示して比べてみます。  ※10秒毎に画像が遷移します。

大正期の地形図をみると、村上の市街地は村上城を飲み込もうとする蛇のように見えますが、これが城下町時代に街道筋に配されていた町屋町で、現在の村上の町の骨格となっています。
大正3年に開設された羽越線の村上駅は、旧城下町の西外れに配置されました。

この地形図から読み取れる大正期から現在までの変化としては、村上駅付近まで市街地が広がったことぐらいで、町の規模はそれ程拡大していないことが分かります。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

村上の歴史


慶長三年(1598)、上杉景勝が会津に移封された後を受け、秀吉の家臣で堀秀政の与力大名だった村上頼勝が、加賀小松より越後北部の九万石をもらい受けて入封し、城下町を建設したことが近世村上の始まりです。

頼勝は、関ヶ原の戦いには直接参加しなかったものの、旧上杉家家臣が起こした一揆を鎮圧したことで所領が安堵され、村上藩を立藩します。しかし、二代藩主忠勝は御家騒動を起こして改易され、新たに堀直寄が十石で入封します。

堀家は三代藩主直定が幼少で死去したことで断絶し、その分家が三万石で存続しますが、その後は、本多忠義、松平直矩、榊原政倫、本多忠孝、松平輝貞、間部詮房など、譜代大名の藩主が短期間で移り変わり、享保五年(1720)に内藤弌信(かずのぶ)が五万石で入封して、以降、維新まで内藤家が藩主として治めることとなります。

村上藩では、産業振興として奨励した茶の栽培、堆朱(ついしゅ・彫漆の一種)、山辺里織(さべりおり・絹織物)の生産、三面川の鮭漁などが盛んに行われ、村上の伝統産業として今に伝わっています。

特に、三面川(みおもてがわ)は鮭の遡上で知られていて、鮭漁は藩の重要な収入源の一つだったといいます。明治11年には、日本で最初の鮭の人工孵化場を設置したことで有名で、古くからの独自の鮭文化を築いてきました。

戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に組して新政府軍に対抗し、村上の町も戦場となりますが、戦局を維持することができず降伏します。その後、村上藩は明治4年に村上県となり、同年に新潟県に併合されています。

明治22年の町村制施行の時、旧の武家地は村上本町、旧町屋町は村上町となり、ひとつの市街地でありながら2つの町に分かれ、この状態は昭和21年に合併して村上町となるまで続きます。

毎月2と7のつく日に三之町に立つ六斎市は、大正7年に旧士族の町である村上本町の産業振興のために始められたものです。おしゃぎり会館前から三之町の小路に、びっしりと200余りの露天が立ち、近郊の農家でとれた新鮮な野菜や特産物、魚などの旬の幸を売るお店のほか、衣料品や日用雑貨や生花に至るまでの店が立ち並び、大勢の買い物客で賑わっています。

大正3年、村上線(現 羽越線)が村上まで延長されて新潟とつながり、大正13年には秋田までの羽越線全線が開通します。
村上駅の西約2kmには,明治37年の石油開発の際に発見された瀬波温泉があり、毎年多くの観光客を集めています。

 


 

村上の立地条件と町の構造



村上は新潟平野の北端に位置しています。

ここから北方には、朝日山地が日本海沿岸までせり出していて、JR羽越本線と国道7号線(旧羽越街道)は、鶴岡のある庄内平野にでるまで断崖の海岸線を走ることになり、沿線は「笹川流れ」などの景勝地で知られています。

村上の町は、戦国期に本庄氏の領した本庄郡(現岩船郡、荒川のほぼ以北)の中央に位置していて、独立丘陵である臥牛山(標高135m)の山上に築かれた村上城と、その西麓に展開する城下町により構成されていました。

町の北方には、下渡山を回りこむように流れる三面川がありますが、河口南側の瀬波海岸には標高20mほどの海岸砂丘が発達していて、典型的な日本海沿岸の平野地形をみせています。(海岸砂丘については新潟のまちあるきを参照)



村上城下町には、新潟と新発田から庄内・鶴岡に抜ける羽越街道が通り、大町で日本海沿岸を通る浜通りが分岐しています。街道はT字型で分岐しており、この街道筋が城下町の基本骨格となっています。

臥牛山とよばれる城山には、戦国期に本庄氏によって築かれた城跡が残されていますが、江戸初期の堀直寄の治世に、曲輪を拡張して石垣が積み直され、本丸から北方向に、二の丸と三の丸が山上に並び、麓に居館が配され、近世城郭としての形が整えられました。


二之町からみる臥牛山


臥牛山頂に残る城跡の石垣


城山からは村上市街地と日本海までが一望できます。

城山から見下ろす村上の町は、周囲を山に囲まれ日本海に開いた、小さな平野にこじんまりと佇む町でした。


城山(臥牛山)から旧村上城下町を望む


村上の町割りの基軸は大町通り(上町通り)です。

大町通りは、村上城下町を通る羽越街道のことですが、城下町北方の下渡山と南方の山居山を結ぶ線を軸線として配置されています。
大町通りを歩くと、通りの先に2つの小山を見通すことができ、村上の町が、臥牛山と2つの小山を基本要素として都市設計がなされたことが実感できます。


左:大町通りから北方向には遠くに下渡山が見える  右:南方向には山居山が見える


大町通りの中心になる大町交差点では、羽越街道浜通りがT字で交差していますが、城下町絵図をみると、江戸期にはこのT字型の街道沿いに町屋町が配置され、これを取り囲むように武家屋敷地と寺町が配置されていたことが分かります。



城山の麓に広がる二之町は、かつての上級家臣の武家屋敷地でした。
今でも狭い道路に面して、良く手入れされた生垣が連なり、広い敷地に豊かな庭木が茂る閑静な住宅地となっています。武家屋敷の風景を今に継承している地区です。


閑静な住宅地の二之町  生垣が連なり豊かな庭木が茂る


町中には茅葺の旧武家屋敷が残されています。
江戸時代に建築された若林家、成田家などの主屋は、いずれも寄棟・茅葺・平屋建ての典型的な村上の武家屋敷で、当時の中級武士の質素な生活の様子が忍ばれます。


町中に残る茅葺の旧武家屋敷
背後に見える城山(臥牛山)


町屋町には綺麗に復元整備された町並みや豪壮な商家建物などはあまり見当たりませんでした。

大町通りの大町交差点から北側は「小町通り」と称されていますが、北陸地方特有の雁木風のアーケードが並び、看板建築も数多く目に付きます。
往時の姿を比較的残しているといわれる井筒屋を見ると、商家の造りは切妻平入りの縦目板張りのようで、土蔵造りの建物は見当たりませんでした。


小町通りの雁木風のアーケード


左:井筒屋  右:小町通りに残る見事な看板建築


大町交差点から南側の通りでは道路拡幅工事が行われていました。

西日本とは違い、一般的に東日本の城下町は道幅が広くできています。
村上も例外ではなく、往時のままの幅員でも車の離合に然程の問題もなく、比較的ゆったりしているのですが、それでも拡幅を行おうとするのは理解できません。
拡幅前の町並みイメージを再現するために、沿道に再建された建物には昔風の設えを施していますが、所詮作り物の感が拭えませんし、そもそも拡幅が必要なほど交通量が多いようには見えず、これで店舗への集客が図れるとも思えません。

同様の事例としては、杵築(大分県)、飫肥(宮崎県)、二本松(福島県)等にもありましたが、2度とやるべきではないと感じました。


左:大きく拡幅された大町通り  右:大町交差点付近 向うは往時のままの小町通り


城下町の南端、山居山の麓にあるのが村上地方の総鎮守である西奈弥(せなみ)羽黒神社です。
天正十六年(1586)、当時の村上城主本庄繁長が出羽三山のひとつ羽黒神社の祭神を臥牛山の麓の社殿に勧請したのが始まりで、寛永十年(1633)に堀直奇が城郭の拡張と城下町の整備を行った際、山麓から現在地に遷宮しました。
毎年7月初旬に行われる村上大祭は、「オシャギリ」と呼ばれる山車を奉納するものですが、寛永年間の遷宮の祝いに、町人たちが大八車に太鼓をつけて曳き回したのが始まりだといわれています。


羽黒神社  左:小山の中腹にある社殿への参道  中:拝殿  右:境内からは村上市街地が一望できる

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2009年7月


参考資料

使用地図
@1/25,000地形図「村上」平成7年修正 「越後門前」平成12年修正
A1/50,000地形図「村上」大正2年修測


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