まちあるきの考古学
酒田   <山形県酒田市>


庄内平野の米都 最上川河口にある舟運の拠点





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酒田のまちあるき


山形県の大河 最上川の河口に位置する酒田は、日本海の西廻り航路と最上川の内陸航路の接点にあたり、中世から港町としてその名を馳せてきました。
特に、江戸期以降は、米どころ庄内平野の中心地として、また最上川の沿岸地域の米の集積港として栄えてきたのです。

その伝統を今に伝える「米都」酒田のシンボルが山居倉庫です。

リズム感のある黒壁と柔らかなケヤキ並木のコントラストには、まるで一幅の絵をみるような美しさがあります。




左:山居倉庫 黒壁とケヤキ並木の小路  右:日枝神社前の旧御茶屋街にある山王倶楽部

 


 

地図で見る 100年前の酒田


現在の地形図(平成12年)と約100年前(大正2年)の地形図を交互に表示して見比べてみます。


右下から日本海に流れ出ているのが最上川ですが、大正期に比べて最も目立つ大きな変化は、河口付近の河道が整理されたことと、古湊周辺に巨大な港湾が整備されたことです。

最上川河口付近の堤防整備により、数本あった河道がまとめられて明確になり、酒田旧港と最上川が分離されているのが分かります。

古湊はその名の如く古来からの湊でしたが、ここには酒田北港や工場群が完成して、現在の巨大港湾都市酒田の中心部となっています。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

酒田の歴史


港町「酒田」の成立

中世、酒田は直江津とともに日本海北方の主要港として栄えてきました。
戦国末期になると、最上氏や南部氏などの物資調達・輸送上の軍役を果たす大商人が現れます。
「三十六人衆」と呼ばれる酒田の豪商達は、自分達の中から町年寄りを選んで町政を取り仕切り、山王社(現 下日枝神社・上日枝神社)を中心とした祭りを主催して、酒田は、堺や桑名などと同様に自由都市として栄えてきたのです。

その頃の酒田は、最上川河口の左岸(南側)にあったといわれますが、最上川の流路が不安定だったらしく、大水によって湊が荒廃したため、慶長年間までには河口右岸の現在の地に移転したといいます。
長い歴史のある港町であるにも関わらず、碁盤目状の計画的な町割りとなっているのはこのためです。

慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの余波を受けて、酒田は最上氏の猛攻にさらされ町は焦土と化します。

元和八年(1622)、最上氏が三代で改易となると旧藩領は4分割され、庄内には信濃松代藩より酒井忠勝が十三万八千石で入封し、鶴岡城を居城とする庄内藩が成立します。
戦国時代以来、酒田には東禅寺城(現 酒井東高校)がありましたが、最上義光がこれを亀ヶ崎城と改名し、一国一城令の後も存続が許され、庄内藩城代がおかれます。


江戸期における酒田の繁栄

酒田には、最上川を下って集められる天領や奥羽諸藩の米蔵も建てられ、明暦年間(1655頃)には米座が開設されますが、町が急激に発展するのは、寛文十二年(1672)に河村瑞賢によって西廻り航路が開発され、西国方面の廻船が北国へ進出増加してからでした。
酒田港は、国土幹線にあたる西廻り航路と地方幹線にあたる最上川航路の結節点にあたる、いわば奥州西岸の海運ターミナル基地として発展したのです。

西国からは木綿・砂糖・塩など、北国蝦夷からは海産物などが、酒田の問屋によって川船に積み替えられて最上川上中流域の内陸地域に送られ、逆に内陸地域からは米・紅花などが、酒田に寄港する諸国の廻船によって日本各地に運ばれていきました。
井原西鶴の浮世草子「日本永代蔵」には、大坂・網干・伏見・京・大津・仙台・江戸の人々が入り交じる様子が描かれているそうで、この頃の酒田は全国各地との深い結びつきをもっていたのです。


江戸中期になると、中世以来の「三十六人衆」に代わって新興商人が次第に頭角を現してきます。

その中心が日本最大の地主といわれた本間家でした。
大阪堂島米相場の先物取引での巨利を田地の購入にあて、奥州諸藩への大名貸しと払米(はらいまい・年貢米の換金)を請け負い、庄内藩の財政建て直しにも大きな役割を果たしたといいます。

酒田の町の中心部に残る本間家旧本邸は、江戸中期に三代当主光丘が幕府巡検使の本陣宿として藩主家に献上してその後拝領したもので、二千石旗本の格式を備えた長屋門構えの武家屋敷造りですが、新興商人である本間家が、町中心部に豪壮な武家屋敷を構えるほど財力を有していたことの証だといえます。


震災火災と山居倉庫

明治26年、酒田米穀取引所の付属倉庫として旧庄内藩主酒井家により新井田川の中州だった山居島に倉庫が建設されます。
米穀取引所とは、米の先物取引を行う商品取引所のことで、東京日本橋蛎殻町や大阪堂島が有名ですが、昭和17年の食糧管理法の成立まで全国各地に存続していました。

明治27年(1894)の庄内大地震による建物倒壊と火災の誘引は市街地に大きな災害をもたらし、本間家の「いろは蔵」も倒壊した中で、震災の前年に建築された山居倉庫は、中州にあったにもかかわらず倒壊を免れ、松杭を利用した基礎補強技術が威力を発揮したといいます。

震災以降、本間家の所有米も山居倉庫に入庫されようになり、庄内地方を代表する本間家と酒井家が結びつき山居倉庫は大きく発展していきます。
倉庫に保管された米は、米券によって取引されました。その厳重な入庫検査と混合保管の手法により、規格の一定した良質米を大量に供給したため、倉庫の信用は非常に高く、大正期には日本銀行が米券の再割引を保証するほどだったといいます。

昭和51年には酒田大火が発生します。
酒田の中心 中町から発生した火は折からの海風にのって東方向に延焼し、中町一丁目、二番町、一番町、新井田町を焼き尽くし新井田川まで達しました。
この大火によって江戸初期に町割りされた旧市街地の1/3が焼失し、今では、古い町並みは山王社門前の中心部西側に残っている程度になっています。


港湾都市 酒田の再生

大正3年、酒田は最上川中流の新庄まで鉄道(現 羽越西線)が開通し、すでに開通していた奥羽本線に接続して全国鉄道網に組み入れられます。その10年後には羽越本線が全通し、南は新津(新潟県)、北は秋田に通じ、日本海側の鉄道網が完成します。
これにより、かつての西廻り航路と最上川舟運は、鉄道路線にとって代わられることになります。

鉄道開設により古来からの舟運は衰退していきましたが、大正年間には、最上川河口部の改修と酒田築港が平行して本格的に始まり、港町酒田の再開発が幕を開けます。

赤川新川の掘削、新井田川の付替え、山居島などの中州や河川敷が埋立てられ、現在の山居町、入舟町、若竹町などが陸続きの市街地となり、酒田港は、下瀬の堤により最上川と分離されて現在のような海港地形となりました。
戦後の昭和23年、全国14港湾とともに、酒田は改めて関税法に基づく開港場に指定され、昭和37年には大浜埋立地に1万t級の岸壁が竣工し、昭和49年には酒田北港が開港して5万t級岸壁が完成、酒田港は最上川河口から小湊地区まで続く巨大港湾となります。

昭和9年、三島(静岡県)出身の実業家佐野隆一によって設立された鉄興社が、本間家の田地を譲り受けて酒田駅裏に酒田工場を設置し、昭和13年には、酒田港改修工事に伴って造成された大浜埋立地に移転して、鉄興社大浜工場(現・東北東ソー化学)が操業を開始します。その後、相次いで日新電化、花王石鹸、広島燃料、米田物産などの近代設備を整えた化学工場が操業を開始して、大浜一帯は東北有数の工業団地となります。 昭和52年には、酒田北港に酒田共同火力発電所が完成して、一時は山形県の80%の電力を賄うようになります。

中世以来の港町酒田は、現在でも港湾都市酒田として、最上川河口で存在感を示し続けているのです。

 


 

酒田の立地条件と町の構造


最上川は、福島県との境に位置する吾妻山付近に源を発する大河で、その流域はそのまま山形県の県域となっています。

その流域は上流から河口まで大きく4つの地域に分かれます。

米沢を中心とする置賜(おきたま)地方を最上流として、山形を中心として蔵王連峰の西麓にある村上地方、中流域にあたる最上地方は城下町新庄を中心としており、北流してきた最上川はここから月山を巻きこむようにして流れて日本海に向かいます。
そして、下流域に広がるのが城下町鶴岡を中心とする「庄内地方」で、庄内平野の河口に位置するのが港町の酒田でした。




酒田の町の立地条件

庄内平野は、最上川や赤川などの堆積作用により形成された平野で、平野北端で秋田県との境である鳥海山(出羽富士)をはじめ、摩耶山、金峰山、月山等の山々に囲まれていますが、庄内平野の地理的特徴は、海岸部が長さ35kmにわたる長大な「庄内砂丘」により閉ざされているところにあります。

庄内砂丘は、鳥取砂丘や吹上浜砂丘(鹿児島県)などと同じく「海岸砂丘」の一つとされていますが、これが形成されるにはいくつかの地理的条件があります。
内陸部から大量の砂を運んでくる河川、河口に堆積した砂を海岸に運ぶ沿岸流と波浪、海岸線の砂をより内側に吹き上げる風、そして、これには一定した風向きと決して強くない風速が必要条件となります。

日本海沿岸部でこの条件に当てはまるのが、千代川河口の鳥取砂丘、信濃川河口の新潟砂丘、そして、最上川河口の庄内砂丘などです。

庄内砂丘は、日本海沿岸部で庄内平野に蓋をするように線状に連なり、その切れ目を目指して、最上川を始め赤川・京田川や日向川など数本の河川が集まって河口を形成していました。
そのため、砂丘内陸側には氾濫原が広がり砂洲が発達し、河川は洪水の都度に河道が変わっていたのです。

このような河口の砂丘上に酒田の町は立地しています。

本格的な河口改修が始まる前、大正2年の地形図を下に挙げておきます。



このような立地条件をもった酒田において、江戸期から営々と続けられてきた土木事業は、赤川と日向川の河口を最上川と別に設けて内陸部を乾田化することと、酒田港と最上川河口を分離して港を水害から守ることでした。

上の地形図(大正2年)でも見られるように、この頃までの赤川は、河口部左岸にある飯盛山麓で最上川に合流していました。これらの合流水は、洪水時にどっと宮ヶ浦地区(向酒田)に押し寄せ、戦国末期に向酒田から現在地に移転する原因の一つとなったことはすでに述べました。
大正期から本格的に始まった赤川新川の河道新設工事は昭和11年に竣工して、現在のように、最上川河口から9km南の浜中で日本海に流れ出るようになります。

また、日向川(にっこうがわ)はかつて古湊(現 酒田北港付近)に河口があり、ここにも地名のとおり港がありましたが、その一部が新井田川を通り最上川に合流していました。江戸末期には、高さ30mの庄内砂丘を掘り切り、長さ2.5kmの新河川が完成しています。

酒田と同様に、向酒田にも古湊にも日枝神社が現存していますが、それは両町がかつての港町だったという歴史があるためです。


酒田の町の構造

酒田の町はとても単純で合理的にできています。
町は下日枝神社(山王社)を基点に町割りされています。

山王社の東側に、最上川流路と平行(東西方向)に、川沿いから本町、中町、内匠町、寺町の4つの通りが設けられ、これに直交する数本の筋が最上川岸に抜けて、町は碁盤目状に町割りされていました。
江戸初期における酒田三十六人衆などの問屋や豪商は本町に屋敷を構え、寺町通りの北側には寺社が配置されています。
また、室町期に築城され酒田統治の拠点となったきた亀ヶ崎城は、新井田川対岸の平地にありました。




亀ヶ崎城は平城で、四周を大きな堀に囲まれた水城だったようですが、下日枝神社と港町が砂丘上にあるのとは対照的に、最上川の氾濫原に位置しています。一般的な城下町にみられる城と町の位置関係が逆転しているのは、酒田衆の力が強かったことの現われかもしれません。

城地は現在では酒田東高校となっていますが、校地内には亀ヶ崎城の遺構である長く続く土塁が残されています。


酒田東高校の敷地内に残る土塁



「最上川流路と平行」と書きましたが、町割りされた戦国初期において最上川流路は定まっていなかったはずで、4本の大通りの基軸は別にあるように思います。
それは現地を歩くと何となく想像がつきます。

山王社から光丘文庫の前を下り、舞娘坂から寺町通りを歩くと、その通りが微高地になっていることが分かります。特に、舞娘坂(日吉町)の辺りでは、通りの両側(南北方向)が緩やかに下っている、つまり僅かに馬の背状になっているように見え、これが酒田の町割りの機軸になっているのではないかと感じました。

日枝神社は、東京の日枝神社、京都の松尾神社など全国にある山王系の神社の一つで、比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた天台宗神道の一派といわれています。
最上川からみて上流側にあるのが上日枝神社、下流側にあるのが下日枝神社で、5月にある日枝神社の例大祭「山王祭」は、江戸初期から絶えることなく続いてきたとされます。酒田大火(昭和54年)復興後からは、全市民のお祭りにすべく「酒田まつり」と改称されて現在に続いています。


天明年間に本間光丘の寄進により建立された社殿には素晴らしい細工が見られます


左:日吉町側にある下日枝神社の山王鳥居  中右:上日枝神社



神社前の御茶屋街

下日枝神社の東側一帯 日吉町にはかつての港町の名残が感じられます。

江戸期、酒田の遊所として数十軒の御茶屋が軒を並べていた地区ですが、現在でも鮨屋、小料理屋、スナックなどの飲み屋に混じって、映画館や倶楽部だった建物も見られ、最近まで酒田の繁華街として賑わっていたのではないかと思われます。
また、相馬楼や山王倶楽部など、かつての御茶屋の面影を残す建物が、料亭文化を今に伝える文化財として大切に保存されています。

ところで、最近アカデミー賞外国映画部門賞を受賞した「おくり人」の舞台はこの日吉町一帯でそうで 町中にはおくり人のロケ地看板が多数目に付きました。


左:山王社に続く舞娘坂と呼ばれる石畳の通り  右:舞娘坂にある赤壁が目を引く山王倶楽部


左:日吉町の町並み  右:艶かしさが感じられる相馬楼


左:かつての映画館「港座」は飲み屋雑居ビルとなっている  右:「おくりびと」の舞台となった港座中劇場



酒田大火

日本海に面して砂丘上に形成された酒田の町は、水利の便が悪いうえ、冬季の北西からの季節風などにさらされ、度々大きな火災に見舞われてきました。
昭和51年に発生した酒田大火は、市街地の22.5haを焼失する戦後4番目の大火となり、酒田市にとっては、デパートや飲食店映画館などが立地する酒田一の繁華街が焼失した未曾有の惨事でした。

私が大学の都市計画研究室にいた時代、大火後の復興都市計画が教材として取り上げられていたため、私にとっての酒田は、遠くにあれど近しい都市でした。

酒田の復興都市計画の特徴は、迅速な復興計画策定と歩行者優先の街づくり手法にあります。

鎮火2日後には酒田市・山形県・建設省による「防災都市づくりの計画概要」が完成し、商店街の復興に合わせた防災都市整備と緑地化が積極的に行なわれ、わずか2年半後には復興式典が行なわれるという、非常に迅速な計画実行がなされています。

また、街づくり手法については、従来からの全天蓋型のアーケード商店街ではなく、1階のセットバックによる歩道アーケード整備と歩行者専用道の新設、そして街路樹などの積極的緑化が挙げられます。

ただし、歩行者専用道は確かに豊富に緑化されているのですが人の気配はなく、中町モールなどの商店街も活性化しているようには見えませんでした。
酒田の商圏規模からみて、商業モール街は大きすぎたのかも知れず、また復興後の郊外型大規模店舗の隆盛には対抗する術もなく、従来型の商業機能を残したままハード面だけの再整備では難しい、という感想をもちました。


左:中町通り 1階を1.5mセットバックして緑豊かな歩道空間を生み出している
右:歩行者専用道は緑豊かで手入れが行き届いているが人通りは少ない



本間家旧本邸

中町通りの南側、本町には本間家旧本邸が残されています。
江戸中期、本間光丘が建築した長屋門構えの武家屋敷造りですが、新興商人である本間家が、本町一丁目(現住所は二番町)に豪壮な武家屋敷を構えられたことは、当時、それだけの財力・政治力と藩主家との密接な繋がりがあったことが容易に想像できます。

本間家は、戦後の農地解放まで日本最大の地主といわれましたが、起業にはあまり熱心ではなかったようで、三井家や住友家のように財閥化することもなく、地方の一企業家にとどまりました。
旧本邸には昭和20年まで居を構えていたそうですが、そこからも、酒田の地に生きた日本一の大地主の「慎ましやかな」一面をみることができます。


本間家旧本邸


左:本町通りに面する長屋門  右:武家屋敷造りの玄関



山居倉庫

新井田川の南岸に建つのが土蔵造りの山居倉庫です。

明治26年に建築されて以来、100年以上経た今も現役の農業倉庫として活躍していますが、新井田川に面する2箇所の船着場も残されていて、最上川舟運の拠点として活況を呈していた時代が偲ばれます。

全体で12棟が残っていますが、うち1棟が「庄内米歴史資料館」、2棟が「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽(くら)」として一般開放され、酒田一の名所として多くの観光客を集めています。
函館のヒストリープラザや倉敷のアイビースクエアなどと同様に、山居倉庫の資料館も物産館もとてもセンス良くできていて、観光施設として第一級のできだと思います。


新井田川に面する山居倉庫


かつて、ここは最上川舟運から荷揚げされた米俵の搬出入で賑わっていた


左:舟運で賑わっていた頃の風景のジオラマ  右:かつての荷揚げ場も残されている


山居倉庫の併設施設  左:山形の銘酒が楽しめるレストラン  中:庄内米歴史資料館  右:観光物産館


酒田で最も美しい風景が倉庫の裏側にあります。

黒い焼板縦張りの大きな妻面の連続がリズム感にあふれ、これにケヤキの巨木の並木が優しく寄り添い、木漏れ日の柔らかな光がこれらを包み込んでいます。

この空間はとても絵画的です。


大きなケヤキ並木は、西日を遮ると同時に、冬期の強い季節風から倉庫を守る役目を果たしていて、この絵画のような美しい風景は、倉庫の品質を守るための必要性から生まれたものでした。

大量の良質米を供給し、抜群の信用度を誇った山居倉庫は、間違いなく「米都」酒田を代表する施設ですが、それがこれほど美しい風景の中にあることは、とても象徴的な出来事のように思えました。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2009年7月


参考資料
@「歴史の町なみ 北海道・東北編」保存修景計画研究会
A「地図で見る百年前の日本」小学館

使用地図
@1/50,000地形図「酒田」平成12年修正
A1/50,000地形図「酒田」大正2年修測


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