まちあるきの考古学 庄内平野の米都 最上川河口にある舟運の拠点
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酒田のまちあるき
山形県の大河 最上川の河口に位置する酒田は、日本海の西廻り航路と最上川の内陸航路の接点にあたり、中世から港町としてその名を馳せてきました。 |
左:山居倉庫 黒壁とケヤキ並木の小路 右:日枝神社前の旧御茶屋街にある山王倶楽部 |
地図で見る 100年前の酒田 現在の地形図(平成12年)と約100年前(大正2年)の地形図を交互に表示して見比べてみます。 右下から日本海に流れ出ているのが最上川ですが、大正期に比べて最も目立つ大きな変化は、河口付近の河道が整理されたことと、古湊周辺に巨大な港湾が整備されたことです。 最上川河口付近の堤防整備により、数本あった河道がまとめられて明確になり、酒田旧港と最上川が分離されているのが分かります。 古湊はその名の如く古来からの湊でしたが、ここには酒田北港や工場群が完成して、現在の巨大港湾都市酒田の中心部となっています。 |
酒田の歴史
港町「酒田」の成立 |
酒田の立地条件と町の構造 最上川は、福島県との境に位置する吾妻山付近に源を発する大河で、その流域はそのまま山形県の県域となっています。 その流域は上流から河口まで大きく4つの地域に分かれます。 米沢を中心とする置賜(おきたま)地方を最上流として、山形を中心として蔵王連峰の西麓にある村上地方、中流域にあたる最上地方は城下町新庄を中心としており、北流してきた最上川はここから月山を巻きこむようにして流れて日本海に向かいます。 そして、下流域に広がるのが城下町鶴岡を中心とする「庄内地方」で、庄内平野の河口に位置するのが港町の酒田でした。 酒田の町の立地条件 庄内平野は、最上川や赤川などの堆積作用により形成された平野で、平野北端で秋田県との境である鳥海山(出羽富士)をはじめ、摩耶山、金峰山、月山等の山々に囲まれていますが、庄内平野の地理的特徴は、海岸部が長さ35kmにわたる長大な「庄内砂丘」により閉ざされているところにあります。 庄内砂丘は、鳥取砂丘や吹上浜砂丘(鹿児島県)などと同じく「海岸砂丘」の一つとされていますが、これが形成されるにはいくつかの地理的条件があります。 内陸部から大量の砂を運んでくる河川、河口に堆積した砂を海岸に運ぶ沿岸流と波浪、海岸線の砂をより内側に吹き上げる風、そして、これには一定した風向きと決して強くない風速が必要条件となります。 日本海沿岸部でこの条件に当てはまるのが、千代川河口の鳥取砂丘、信濃川河口の新潟砂丘、そして、最上川河口の庄内砂丘などです。 庄内砂丘は、日本海沿岸部で庄内平野に蓋をするように線状に連なり、その切れ目を目指して、最上川を始め赤川・京田川や日向川など数本の河川が集まって河口を形成していました。 そのため、砂丘内陸側には氾濫原が広がり砂洲が発達し、河川は洪水の都度に河道が変わっていたのです。 このような河口の砂丘上に酒田の町は立地しています。 本格的な河口改修が始まる前、大正2年の地形図を下に挙げておきます。 このような立地条件をもった酒田において、江戸期から営々と続けられてきた土木事業は、赤川と日向川の河口を最上川と別に設けて内陸部を乾田化することと、酒田港と最上川河口を分離して港を水害から守ることでした。 上の地形図(大正2年)でも見られるように、この頃までの赤川は、河口部左岸にある飯盛山麓で最上川に合流していました。これらの合流水は、洪水時にどっと宮ヶ浦地区(向酒田)に押し寄せ、戦国末期に向酒田から現在地に移転する原因の一つとなったことはすでに述べました。 大正期から本格的に始まった赤川新川の河道新設工事は昭和11年に竣工して、現在のように、最上川河口から9km南の浜中で日本海に流れ出るようになります。 また、日向川(にっこうがわ)はかつて古湊(現 酒田北港付近)に河口があり、ここにも地名のとおり港がありましたが、その一部が新井田川を通り最上川に合流していました。江戸末期には、高さ30mの庄内砂丘を掘り切り、長さ2.5kmの新河川が完成しています。 酒田と同様に、向酒田にも古湊にも日枝神社が現存していますが、それは両町がかつての港町だったという歴史があるためです。 酒田の町の構造 酒田の町はとても単純で合理的にできています。 町は下日枝神社(山王社)を基点に町割りされています。 山王社の東側に、最上川流路と平行(東西方向)に、川沿いから本町、中町、内匠町、寺町の4つの通りが設けられ、これに直交する数本の筋が最上川岸に抜けて、町は碁盤目状に町割りされていました。 江戸初期における酒田三十六人衆などの問屋や豪商は本町に屋敷を構え、寺町通りの北側には寺社が配置されています。 また、室町期に築城され酒田統治の拠点となったきた亀ヶ崎城は、新井田川対岸の平地にありました。 亀ヶ崎城は平城で、四周を大きな堀に囲まれた水城だったようですが、下日枝神社と港町が砂丘上にあるのとは対照的に、最上川の氾濫原に位置しています。一般的な城下町にみられる城と町の位置関係が逆転しているのは、酒田衆の力が強かったことの現われかもしれません。 城地は現在では酒田東高校となっていますが、校地内には亀ヶ崎城の遺構である長く続く土塁が残されています。
「最上川流路と平行」と書きましたが、町割りされた戦国初期において最上川流路は定まっていなかったはずで、4本の大通りの基軸は別にあるように思います。 それは現地を歩くと何となく想像がつきます。 山王社から光丘文庫の前を下り、舞娘坂から寺町通りを歩くと、その通りが微高地になっていることが分かります。特に、舞娘坂(日吉町)の辺りでは、通りの両側(南北方向)が緩やかに下っている、つまり僅かに馬の背状になっているように見え、これが酒田の町割りの機軸になっているのではないかと感じました。 日枝神社は、東京の日枝神社、京都の松尾神社など全国にある山王系の神社の一つで、比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた天台宗神道の一派といわれています。 最上川からみて上流側にあるのが上日枝神社、下流側にあるのが下日枝神社で、5月にある日枝神社の例大祭「山王祭」は、江戸初期から絶えることなく続いてきたとされます。酒田大火(昭和54年)復興後からは、全市民のお祭りにすべく「酒田まつり」と改称されて現在に続いています。
神社前の御茶屋街 下日枝神社の東側一帯 日吉町にはかつての港町の名残が感じられます。 江戸期、酒田の遊所として数十軒の御茶屋が軒を並べていた地区ですが、現在でも鮨屋、小料理屋、スナックなどの飲み屋に混じって、映画館や倶楽部だった建物も見られ、最近まで酒田の繁華街として賑わっていたのではないかと思われます。 また、相馬楼や山王倶楽部など、かつての御茶屋の面影を残す建物が、料亭文化を今に伝える文化財として大切に保存されています。 ところで、最近アカデミー賞外国映画部門賞を受賞した「おくり人」の舞台はこの日吉町一帯でそうで 町中にはおくり人のロケ地看板が多数目に付きました。
酒田大火 日本海に面して砂丘上に形成された酒田の町は、水利の便が悪いうえ、冬季の北西からの季節風などにさらされ、度々大きな火災に見舞われてきました。 昭和51年に発生した酒田大火は、市街地の22.5haを焼失する戦後4番目の大火となり、酒田市にとっては、デパートや飲食店映画館などが立地する酒田一の繁華街が焼失した未曾有の惨事でした。 私が大学の都市計画研究室にいた時代、大火後の復興都市計画が教材として取り上げられていたため、私にとっての酒田は、遠くにあれど近しい都市でした。 酒田の復興都市計画の特徴は、迅速な復興計画策定と歩行者優先の街づくり手法にあります。 鎮火2日後には酒田市・山形県・建設省による「防災都市づくりの計画概要」が完成し、商店街の復興に合わせた防災都市整備と緑地化が積極的に行なわれ、わずか2年半後には復興式典が行なわれるという、非常に迅速な計画実行がなされています。 また、街づくり手法については、従来からの全天蓋型のアーケード商店街ではなく、1階のセットバックによる歩道アーケード整備と歩行者専用道の新設、そして街路樹などの積極的緑化が挙げられます。 ただし、歩行者専用道は確かに豊富に緑化されているのですが人の気配はなく、中町モールなどの商店街も活性化しているようには見えませんでした。 酒田の商圏規模からみて、商業モール街は大きすぎたのかも知れず、また復興後の郊外型大規模店舗の隆盛には対抗する術もなく、従来型の商業機能を残したままハード面だけの再整備では難しい、という感想をもちました。
本間家旧本邸 中町通りの南側、本町には本間家旧本邸が残されています。 江戸中期、本間光丘が建築した長屋門構えの武家屋敷造りですが、新興商人である本間家が、本町一丁目(現住所は二番町)に豪壮な武家屋敷を構えられたことは、当時、それだけの財力・政治力と藩主家との密接な繋がりがあったことが容易に想像できます。 本間家は、戦後の農地解放まで日本最大の地主といわれましたが、起業にはあまり熱心ではなかったようで、三井家や住友家のように財閥化することもなく、地方の一企業家にとどまりました。 旧本邸には昭和20年まで居を構えていたそうですが、そこからも、酒田の地に生きた日本一の大地主の「慎ましやかな」一面をみることができます。
山居倉庫 新井田川の南岸に建つのが土蔵造りの山居倉庫です。 明治26年に建築されて以来、100年以上経た今も現役の農業倉庫として活躍していますが、新井田川に面する2箇所の船着場も残されていて、最上川舟運の拠点として活況を呈していた時代が偲ばれます。 全体で12棟が残っていますが、うち1棟が「庄内米歴史資料館」、2棟が「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽(くら)」として一般開放され、酒田一の名所として多くの観光客を集めています。 函館のヒストリープラザや倉敷のアイビースクエアなどと同様に、山居倉庫の資料館も物産館もとてもセンス良くできていて、観光施設として第一級のできだと思います。
酒田で最も美しい風景が倉庫の裏側にあります。 黒い焼板縦張りの大きな妻面の連続がリズム感にあふれ、これにケヤキの巨木の並木が優しく寄り添い、木漏れ日の柔らかな光がこれらを包み込んでいます。 この空間はとても絵画的です。
大きなケヤキ並木は、西日を遮ると同時に、冬期の強い季節風から倉庫を守る役目を果たしていて、この絵画のような美しい風景は、倉庫の品質を守るための必要性から生まれたものでした。 大量の良質米を供給し、抜群の信用度を誇った山居倉庫は、間違いなく「米都」酒田を代表する施設ですが、それがこれほど美しい風景の中にあることは、とても象徴的な出来事のように思えました。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2009年7月 参考資料 @「歴史の町なみ 北海道・東北編」保存修景計画研究会 A「地図で見る百年前の日本」小学館 使用地図 @1/50,000地形図「酒田」平成12年修正 A1/50,000地形図「酒田」大正2年修測
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