まちあるきの考古学 庄内平野の中心 緩やかに川の流れる長閑な城下町
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鶴岡のまちあるき 鶴岡は、古くから庄内平野の中心地であり、江戸時代は酒井氏十三万八千石の城下町でした。 |
地図で見る 100年前の鶴岡 現在の地形図と約100年前(大正2年)の地形図を見比べてみます。 鶴岡城下町は庄内平野南部で赤川左岸にありました。 城下町は、本丸を中心に四方に広がっていましたが、その外側には、まるで衛星のように小さな村が見られます。 現在では、鶴岡市街地は四方に大きく広がり、外側の衛星の村々を飲み込んでしまっています。また、羽越本線の鶴岡駅が城下町北端に設けられ、線路と赤川が市街地の拡大を抑えているように見えます。 |
鶴岡の歴史 中世、鶴ケ岡城は大宝寺城と呼ばれていました。南北朝時代には地頭の武藤氏が当城を本拠にして庄内三郡(田川郡、飽海郡、村山郡)に勢力を張っていました。 戦国時代には一時的に上杉氏の領有するところとなりますが、関ケ原の戦いによって庄内を支配したのは最上義光でした。 義光は、大宝寺城を隠居城とし、城下東側を流れていた赤川本流を東側に移し、旧河道を内川として残して治水を行ったとされます。 その後、大宝寺城は鶴ケ岡城と改められ、鶴岡は庄内地方統治の中心となります。 東に五日町、三日町、二日市町、七日町、肴町を、西に新町を配置し、寺院の多くは、内川の東岸に配置されました。この頃の城下の人口は4000人程と推定されています。 元和八年(1622)、最上氏が改易されると、信濃松代城主だった酒井忠勝が十三万八千石で入封し、以来、明治維新まで庄内藩主として在地します。 酒井家は、徳川四天王の一人である酒井忠次の嫡流で譜代中の譜代であり、転封の相次いだ譜代大名にあって、庄内入封以降は一度も移封することのなかった数少ない大名の一つです。 忠勝は、石高に見合う家臣団を住まわすために新たに三の丸を造り、町屋町を内川の東岸に移し、城郭には堀を二重に巡らせ、城内への入口要所には木戸が設けられたといいます。 戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の中心勢力として新政府軍に対抗します。 当時日本一の大地主といわれた本間家の財力を背景に、スナイドル銃など最新式兵器を備えて、新政府側の新庄藩、秋田藩領内へ侵攻して連戦連勝を重ねますが、東北諸藩が続々と降伏していくのを見て最後には恭順することとなります。 しかし、庄内藩は最後まで自領に新政府軍の侵入を許しませんでした。 鶴岡に鉄道が開通するのは大正時代になってからでした。 明治36年、奥羽本線が新庄まで開通すると、新庄から酒田に向かって最上川沿いを酒田線(現 陸羽西線)が敷設され、大正8年には余目から分岐して鶴岡まで延伸されますが、新潟県新津から日本海沿いを走る羽越本線とつながるのは大正13年のことでした。 鶴ヶ岡城の北東1.6kmの位置に鶴岡駅が開設されてから、旧城下町と駅での間に市街地が拡大していきます。 鶴岡は、大正13年に市制が施行され、昭和30年代に周辺の町村を合併して人口10万人近くの市となりました。それ以降、現在まで人口は微増減をしていますが大きな変化はなく、平成の大合併により、東北一の市域面積をもつ人口14万人の県下第二の都市となりました。 |
鶴岡の立地条件と町の構造 鶴岡は、庄内平野の南部にあり、赤川の左岸地域に位置しています。 庄内平野は、主に最上川と赤川の堆積作用により形成された平野で、平野北端にある鳥海山(出羽富士)をはじめ、摩耶山、金峰山、月山等などの山々に囲まれ、海岸沿いは、南北約35kmにわたる長大な庄内砂丘によって閉ざされています。 砂丘には最上川などの4つの河川が開口していますが、そのうち日向川と赤川は、元々最上川と河口を同じにしていました。 江戸末期に日向川が、昭和初期には赤川が、それぞれ最上川の河口から分離され、砂丘を切り開いた新たな河口から日本海に注ぐようになります。 赤川は、新潟県境の朝日山系北麓と月山西麓を源として庄内平野南部を流れる河川ですが、その支流(赤川の旧河道)である内川と青竜寺川との間に鶴岡城下町は位置しています。 藤沢周平原作の映画「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」「武士の一分」そして「蝉しぐれ」の舞台とされる海坂藩は、藤沢の故郷である鶴岡の庄内藩をモデルとしています。 江戸や京から遠く離れた地にあって、開幕以来の譜代名門の藩主家が治めてきた城下町は、川が緩やかに流れる長閑な風景の中にありました。 まちあるき当日は小雨。 かつての大手道が内川を渡る三雪橋からの眺めが、最も鶴岡らしい風景だといいます。 橋上からは、北に鳥海山、東に月山、南に金峰山と母狩山が望め、庄内地域を代表する三名山の頂の雪を一度に見ることができることが橋名の由来とのことですが、生憎の曇り空で、期待した鶴岡らしい風景を見ることはできませんでした。
本丸は内堀と中堀の二重の堀に囲まれ、北西には外堀が廻り、東西両側を北流する内川と青竜寺川が大外堀の役割を果たしていました。 城郭内に天守は建てられず、堀の内側には土塁が築かれて、石垣は積まれていなかったようです。 城郭内は公園として綺麗に整備され、中堀沿いにはソメイヨシノの桜並木があります。 公園内には730本もの桜が植わっているそうで、日本さくらの名所100選にも選ばれています。 鶴岡城は平城で、低平な場所にあります。 なぜこの場所に築城されたのでしょうか。 本丸は、内川沿いに比べると僅かに微高地にあるようですが、最上義光が河道を付替えたことからも分かるように、昔から治水に難のある土地だったはずです。他に何ら地理的特性も見当たらず、庄内三郡を統べる拠点として相応しい場所とはどうも思えません。 前に述べたとおり、南北朝の頃には既に武藤氏による大宝寺城が存在し、上杉氏も最上氏も、そして酒井氏もこの城地を受け継いています。城といっても、中世のそれは館を兼ねた砦程度のものだったはずで、平時の領民支配の館が、戦乱の世でも引き継がれたのかも知れません。 鶴岡城下町は、鶴ヶ岡城を中心に四方に広がり、西は青龍寺川、東は新内川までが範囲でした。城郭の東南西方向には、街道に沿って町屋町が囲み、数多くの寺社もこれに沿って配置されていました。 城下町の絵図には、中堀の外側南北方向に2つの池が見られますが、江戸初期の河道変更の名残りかもしれません。本丸付近が低地にある証だと思います。 北側の池は現在の鶴岡税務署の辺りにあたりますが、埋立てられて痕跡は見あたりません。 南側の池は百間堀と呼ばれていた堀で、現在では慶応大学の研究所が建っています。周辺より一段低くなった地形をそのまま生かして、水面に浮かぶグラスキューブの近代的な建物がありました。
本丸には庄内藩主酒井家の四人の先祖を御祭神とする荘内神社が鎮座しています。 明治10年に創建されたものですが、幕藩体制が終わった後でも、旧藩主を敬う民衆の気持ちが強かったのかも知れません。 社殿は大手口の方向を向いているため、社殿、鳥居から旧大手道の三日市通りが一直線に見通せるため、まるで荘内神社の参道のように見えます。 鶴ヶ岡城の鬼門には山王日枝神社と大徳寺が位置しています。 山王日枝神社は、山王信仰に基づき比叡山麓の日吉大社から勧請を受けた神社で、全国に沢山ありますが、東北では酒田のものが有名です。 神社の由緒には、創建は定かでないが大宝寺城草創の以前からあり、江戸初期に最上義光が造営し、酒井家入封後に産土神社とされたと書かれています。 大督寺は、庄内藩主酒井家の歴代の菩提寺で、裏鬼門にあります。 明治22年に境内を活用して小学校を開校し、昼食の持ってこれない子供へ食事を与えたことから「学校給食発詳の地」とされています。
かつての町屋町に古い町並みは殆ど見られませんでした。 城下町は、戦災を受けたわけではありませんし、都市化により急速に建て替えが進んだわけでもないようです。 通りが拡幅されてある時期に建て替わったのかも知れませんし、豪壮で頑丈な商家が少なかったため緩やかに建て替えが進んだのかも知れません。 小雨がパラついて時間も無かったため、普段のように細かなまちあるきができなかったので、目に付かなかっただけかも知れません。 その中で面白かった町屋は 本町一丁目(旧 下肴町)にある三井家蔵座敷です。 明治二年の大火以後、母屋を火災から守るため周囲に防火帯として建てられた土蔵の中の一棟だそうです。 関東地方の店蔵に比べると簡素な造りをしていますが、華奢な土蔵の多い東北地方では豪壮な造りをしていて、綺麗に保存修復されています。 この蔵座敷が面白いのは、歩道に1m程はみ出ていることです。 本町通りを拡幅する際に、市内で珍しく残った蔵座敷なので許されたのでしょうか。 仮にそうだとすると、道路拡幅は1m程度のもので、僅か1mのために沿道の町屋は取り潰されたのでしょうか。現地の説明看板は何も答えてくれませんでした。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2009年7月 使用地図 @1/25,000地形図 「鶴岡」平成9年修正 A1/50,000地形図 「鶴岡」大正2年修測
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