まちあるきの考古学 東京湾の入口にある 海運と海防の要所 黒船来航の港町 造船所と郊外住宅地の町
|
浦賀のまちあるき ペリー来航の地として知られる浦賀は、東京湾の入口に位置しています。 |
![]() 西浦賀の東福寺からみた浦賀湾入口部 湾の外に浦賀水道と房総半島が見える |
地図で見る 100年前の浦賀 現在の地形図と約100年前(明治36年)の地形図を見比べてみます。 地形図の縮尺が違うため、文字の大きさに差があり、少し奇妙に見えますがお許しください。 明治の地形図をみると、奥細く切れ込んだ浦賀湾の周囲に薄く市街地が広がり、他は険しい山地形になっていることが分かります。 湾の奥にあるのが、浦賀船渠の造船所(平成15年まで住友重機械工業浦賀艦船工場)です。 現在の地形図をみると、浦賀湾を取り囲むように大きく住宅地が広がっていることが分かります。昭和40年代以降に、山地を造成して次々と開発された戸建住宅地です。 |
浦賀の歴史 徳川家康が関八州を領して江戸に入った時、浦賀は歴史の表舞台に登場します。 |
浦賀の立地条件と町の構造 房総半島と三浦半島の間、東京湾の出入り口にあたる浦賀水道は、富津岬(房総半島)と観音崎(三浦半島)の間の最も狭い場所で、幅7km程しかありません。 東京湾内には、横浜、東京、千葉、川崎、横須賀、木更津などの大型港湾や京浜・京葉の工業地帯があるため、浦賀水道には、貨物船やコンテナ船、タンカーなどの大型船が多数通航します。 そのために、水道には1.4kmの幅で大型船舶のみが通航できる「浦賀水道航路」が設定され、航路内だけで、一日あたり500隻もの大型船舶が出入りしています。 江戸時代でも、大江戸の消費を支えたのは海運であり、その殆どが浦賀水道を経由していました。 浦賀水道は、海運だけでなく、首都防衛の要所でもありました。 明治時代以降、浦賀水道周辺には砲台や海堡などが次々と設けられて要塞化され、太平洋戦争中は、日本は防衛目的で、米国は封鎖目的で、双方が機雷を敷設していました。 西浦賀の東福寺からは、浦賀湾の入口とその先の房総半島が遠望できますが、その風景から浦賀水道の狭さが実感できます。 開国という、当時の日本にとっての無理難題を押し付けるにあたって、まず浦賀沖を抑えたマシュー・ペリーというアメリカの海軍大佐は、とても優秀な軍人だったといえます。
京急本線の終点・浦賀駅は丘上にある小さな駅でした。 駅前から見る浦賀の町の風景には驚きました。 両側を急崖に挟まれ、眼前には巨大なドック上屋があるだけで、浦賀地区に住む5万人の住宅は一体何処にあるのか、とても不思議に思いました。
浦賀湾はV字谷に海が入り込んだような地形をしていて、湾は細長くそれ自体がドックのような形をしています。幅は160m〜240mほどですが、奥行きは1kmほどあり、湾の最深部に旧造船所と京急浦賀駅があります。 造船所(住友重機械工業浦賀艦船工場)は平成15年に閉鎖となりましたが、まだ跡地には数多くの工場上屋が残っています。明治32年に築造されたドライドックも現存していて、往時の面影を偲ぶことができます。 この旧浦賀船渠の第1号ドック(浦賀ドック)は、世界に4か所にしか現存しないレンガ積みドライドックのひとつだそうで、貴重な産業遺産を街作りに活用しようと、現在、横須賀市を中心に工場跡地の再整備計画が進められています。 道路沿いのブロック塀から背伸びをして覗き込むと、ドックの全景を見ることが出来ます。
浦賀の町は湾の中ほどの両岸に東西に分かれて形成されました。 江戸初期に干鰯問屋が立地したのが東浦賀で、享保年間に浦賀奉行所がおかれてから発展したのが西浦賀です。 両岸の距離は200mもありませんが、今でも橋がありません。 造船所があったため架橋されなかったのか、谷地形のため技術的に難しかったのか分かりませんが、その代替手段として、両町は渡船で行き来ができます。 渡船の航路は「浦賀海道」と名付けられ、全国でも珍しい水上の市道で、通勤・通学から買い物客まで、地元の足としてなくてはならないものとなっています。 現在の渡船「愛宕丸」は、大名・公家が使った「御座船」をモデルに造られたそうで、利便性だけでなく、浦賀の風情を演出する重要な役割も果たしています。 橋が架けられなかったことは、結果的に、浦賀の景観を保全する上で良かったのかもしれません。
船着場の周辺が西浦賀の中心だったようで、海岸沿いの道路から一本入った通りに古い町並みが残っています。 全体的に小ぶりな建物が多く、切妻や寄棟の二階建て、外壁は板張り、二階に出格子、屋根は桟瓦葺というのが一般的のようですが、中には出桁造りで小口を銅板で巻くなど、瀟洒なデザインのものも見られます。 蔵もいくつか残っていて、石蔵も目立ちました。 浦賀で廻船問屋とは、自ら廻船を有して商いをしていた問屋だけでなく、船を持たずに御番所に詰めては、奉行所の指示の下で荷改めだけを業とした問屋もありました。
背後の崖地では寺社が町を見下ろしています。 その中の一つに西叶神社があります。 源平時代、文覚上人が源氏の再興を祈願して、京の石清水八幡宮を勧請したと伝えられる古社で、応神天皇を祭神としています。西浦賀の総鎮守であり、浦賀廻船問屋衆の厚い信仰に守られてきました。
西浦賀の対岸には東叶神社があり、浦賀湾を挟んで向かい合っています。 西叶神社を勧請したものですが、江戸前期、東浦賀には干鰯問屋が軒を連ね、干鰯流通の拠点となっていたことは既に述べましたが、この商いによる繁栄が、勧請の背景となったようです。 東浦賀には古い町並みはさほど残っておらず、住宅地としての性格が強い町並みになっています。
湾の背後にある崖上には、昭和40年代に開発された住宅地が広がっています。 昭和初期に設けられた浦賀駅は、三浦半島の先端にある造船所に人と物資を運びましたが、高度成長期には、浦賀の山を横浜、横須賀のベッドタウンに変えてしまいました。 住宅地は40〜50mの高さにあるため、湾沿いの道路からは崖地の緑だけが見え、その上に住宅地があることすら分かりません。 東浦賀の東福寺の裏手からは、細い道が「湘南うらが住宅地」に通じていますが、住宅地の中に入ると、逆に海辺の風景が見えなくなります。 江戸初期から続く港町とは全く異なる、何処にでもある普通の家並みがそこにはあります。
また、東浦賀の湾沿いには巨大なライオンズマンションがそびえ立っています。 風光明媚な入江、古びた造船所、そして真新しい巨大なマンション、これらが並ぶ風景はとても奇異に感じますが、ある意味で浦賀の今を象徴しているのかも知れません。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2010年3月 参考資料 @観光リーフレット「三浦半島 きままに散歩 浦賀駅周辺」 A「地図で見る百年前の日本」小学館 使用地図 @1/20,000地形図「浦賀」明治36年修測 A国土地理院 地図閲覧サービス「浦賀」
|