まちあるきの考古学 武家屋敷から里山に還った山間の小城下町
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秋月のまちあるき
日田街道の商都・甘木から、小石原川の源流近くまで遡った盆地に秋月城下町はあります。 |
秋月の歴史
秋月の歴史は、鎌倉初期に原田種雄が、二代将軍源頼家から恩賞として筑前夜須郡の秋月の荘を拝領し、秋月種雄と名を改めて古処山城を築いたことに始まります。 |
秋月の立地条件と町の構造 秋月の町は、天領日田と博多を結ぶ日田街道の商都・甘木から北東へ、小石原川に沿って約6km遡った山間の小盆地にあります。 小石原川に沿って久留米から豊前へ抜ける秋月街道(現 国道322号線)が通っています。街道は旧城下町を貫けると、かつて秋月氏の本城がおかれた標高850mの古処山の西麓の峠(八丁越)を越えて豊前国に入ります。 秋月の旧城下町は、古処山の懐に抱かれた小さな盆地に広がり、いまでも清楚で静かなたたずまいをみせてくれています。 盆地を東から西に流れる野鳥川は小石原川の支流にあたり、これに沿って秋月街道が城下町を貫通しています。 中央部の交差点が札の辻にあたり、ここから下流部に町屋町が街道沿いに展開し、上流部一帯には武家屋敷地が広がっていました。 そして、盆地最奥の小高い場所には藩主館(秋月陣屋)がありました。 秋月散策に城下町時代の絵図を持ち歩いても困ることはありません。 それほど町の構造は江戸期と変わっていません。 町中を貫流する野鳥川やその支流、大小の道路構成や野面石積みで区画された屋敷割り、そして寺社や町屋町の配置など、これらは城下町から継承された骨格をそのまま現在に伝えています。
秋月藩主黒田氏の居館(陣屋)は、古処山を背にした盆地の東南隅の高台におかれ、正面には石垣と堀を配し、背面には空谷川が流れて天然の堀の役割を担っていました。 現在では城地の大部分が秋月中学校となっていますが、正面の空堀と石垣、そして土手と瓦坂が残り、坂上にはかつて大手門がありました。また、城の裏御門と呼ばれた長屋門がそのまま残り、黒門と呼ばれているかつての大手門が現在は藩主家の人達を祀る垂裕神社の門として残されています。
江戸時代、大手門のあった瓦坂の正面には勢溜の広場があり、ここを起点として杉の馬場が北に延び、その東側には重臣達の屋敷地と藩校の稽古館が配置され、西側一帯にも一町四方の街区が田の字型で町割りされていました。 杉の馬場は、かつての御成り道で藩士達の登城道であり、時には馬術の稽古も行われたといいます。かつて沿道には土塀を廻らしたいかめしい上級家臣の武家屋敷が並んでいたとされ、いわば秋月城下町のメインストリートにあたりました。 かつて杉の大木が沿道にあったため、こう呼ばれたそうですが、今では代わって、日露戦争戦勝記念に植樹された桜並木が両脇に並び、秋月の桜の名所として親しまれています。
沿道には幾つかの長屋門と土塀が綺麗に修復保全されていますが、それ以外には、西側沿道には古い町並みを模した御土産屋が並び、東側の旧上級武家屋敷地は田畑に戻り、かつての屋敷地は一切残っていません。 秋月を最も特徴づけているのは、武家屋敷地の町割りを残したまま田畑に還った風景にあります。 東から西へ緩やかに下る盆地にあって、かつての屋敷地がそのまま一枚の田畑になったように、屋敷割りに沿って雑石積みの石垣が残っています。 城下町だったことを知らなければ、江戸時代に一帯が武家屋敷が建ち並んでいたことは全く想像がつかないと思います。
田畑に還った風景に武家屋敷地の名残を最も感じるのが、杉の馬場から日照院に至る道筋です。 境内に江戸期築造の本堂と仁王門を残す天台宗寺院の日照院は、谷地の最奥に位置していますが、江戸時代の絵図をみると、そこに至る坂の両側には武家屋敷が並んでいました。 今でも沿道の所々に古家屋が残り、中には明りの灯る家もありますが、全体の印象としては林地になりつつあります。 屋敷の跡地には梅が植林されていますが、朽ち果てて苔むした土塀や手入れされず放置されたイヌマキの屋敷林が残り、ここには明らかに屋敷地だった名残があります。
里山とは、人間と自然が共生していた頃、つまり、高度成長の始まる昭和30年代まで、日本の至る所でみられた田舎の原風景のことで、どんぐりの生るクヌギやコナラの林と幾重にも連なる棚田にせせらぎが流れるイメージが代表的な里山の風景です。 秋月は、里山の風景に武家屋敷の匂いを色濃く残しているところにその良さがあります。 また、盆地のいたる所に小川が流れていますが、旧武家屋敷地にはコンクリートの水路が一切見当たらないことも特筆すべき点です。 屋敷地の脇を流れる小川にも、田畑の脇の道路側溝にも、石が並べられていて、静かな里山を涼しげな水音を響かせ水が流れていました。
多くが田畑にもどった武家屋敷地ですが、城下町の南地域には武家屋敷の面影を残している屋敷があります。 月見坂の田代家や坂の基点に枡形にある久野家などは、野面石積みや赤土の土塀がきれいに修復されて、秋月の代表的な武家屋敷の町並みを創りだしています。
町屋町は秋月街道に沿って札の辻から下流側に配置されていましたが、入口にあたる場所には野鳥川に架かる石造の目鏡橋があります。 橋は文化七年(1810)に花崗岩を用いて架けられたアーチ橋ですが、城下町の入口であるとともにシンボル的存在となっています。
眼鏡橋から枡形を経て札の辻まで、約400mにわたって町屋町が続いています。 町屋は妻入り切妻屋根の二階建てが多いようですが、入母屋や平入り切妻屋根も混在していて、全体的に低密な印象があります。店舗になっている家屋は少なく、古い看板も一切見られないことから、商家としての機能はかなり以前からなくなっていたようです。 江戸時代は、間口4間前後の妻入り茅葺の町屋が続いていたそうですが、それらは火災等で失われて、瓦葺漆喰塗りの家屋に建て替わり、これに加え間口の拡大に合わせて平入り切妻の町屋が建築されて、現在のような混在した町並みとなったようです。
秋月には、城下町のすべての要素が残されています。 近世の陣屋跡、水路と街路、枡形と石橋、町屋と武家屋敷、街道と石畳、土塀と槇垣、そして江戸時代から全く変わらない町割りは、在りし日の城下町の情景を眼前によみがえらせてくれます。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2009年2月 参考資料 @「城下町古地図散歩7 熊本・九州の城下町」平凡社 A「歴史の町なみ 九州篇」保存修景計画研究会 使用地図 @1/25,000地形図「甘木」平成11年修正
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