まちあるきの考古学
日 田   <大分県日田市>


幕府郡代のおかれた交通の要所 九州の真ん中にある天領の町並み





まちあるきの考古学 ホーム  ブログ     近くのまちあるきへ  杵築 中津 臼杵

 

 


 

日田のまちあるき


日田は豆田町と隈町の2つの町を起源としています。

いずれも、戦国末期に城下町として開かれた町ですが、九州北部の交通の要所にあたり、筑後川の舟運により佐賀・久留米方面とも通じていたため、江戸時代には西国筋郡代がおかれて、九州にある幕府領の中心地となって大いに発展します。

その後、隈町は日田温泉街に取り込まれて建て替えが進みますが、豆田町は江戸末期から昭和初期にかけての数多の町屋が残され、九州を代表する歴史的町並みとなって、いまでは観光客の絶えることがありません。



 


 

日田の歴史


豆田町と隈町は、ともに戦国末期に城下町として開かれたのが始まりだとされています。

文禄三年(1594)、豊後日田・玖珠二万石の蔵入地代官を務めた秀吉配下の武将・宮城豊盛が日隈山(現 亀山公園)に城を築き、その対岸に開いた城下町が隈町の起源でした。慶長元年(1596)には、後に豊後佐伯藩の初代藩主となる毛利高政によって、現在の町割りの原型が造られたといい、当時は現在の中本町、隈1・2丁目を二重の堀と土塁で囲み、要所に木戸門を設けて朝夕に開閉していたといわれています。

一方の豆田町は、慶長六年(1601)に小川壱岐守光氏が丸山城と称して月隈山に築城した際に、城の東側に十二町村より商家を移して町が開かれたとされます。
元和二年(1616)、譜代の石川忠総が美濃大垣から入封して、丸山城を改築して永山城と改め、城下町を花月川の対岸に移して豆田町に改名しました。
石川氏の入封するまでは、隈町が日田の中心地でしたが、永山城に居を構えてから豆田町に中心は移っていきました。

石川氏が寛永十年(1633)に下総佐倉藩へ移封されると、日田は中津藩の預かりとなります。

寛永十六年(1639)、日田は天領(幕府直轄地)に組み入れられ、永山城が廃されて麓に日田陣屋(日田代官所)がおかれます。
その後、一旦は日田藩松平領となりますが、すぐに再び天領となり、宝暦九年(1759)には九州の天領を統括する西国筋郡代がおかれて、日田は九州の政治経済の中心地となります。
これにより、九州各地から日田に向う街道は「日田街道」とよばれるようになり、幕府役人や代官所を訪れる者の往来が多く、江戸期を通して日田陣屋町は大いに繁栄しました。

全国の天領で「郡代」がおかれたのは、飛騨高山、美濃、日田の3ヶ所のみで、いかに日田が九州の拠点として重要視されていたかが分かります。


日田を経済的に支えたのが「日田金(ひたがね)」と称される金融資本でした。

「日田金」とは、江戸中期以降、西国郡代の保護を受けた「掛屋」と呼ばれる商人により発展した商業貸付資本のことで、天領内外の商人、庄屋、九州の諸大名などに対して、年1割2分〜1割8分の高利で貸し付けられ、その原資には、助合穀銀(たすけあいこく・農民相互扶助を目的として飢饉等に備えた貯蓄資金)や年貢銀、御用金等の公金が充てられました。
つまり、九州にある広大な天領から毎年入ってくる莫大な資金を、懐の苦しい大名などに貸し付けて運用するもので、郡代のおかれた日田だからこそ可能になった金融システムでした。

幕藩制度の崩壊は、日田金の経済基盤に支えられた日田の町を直撃しました。


明治以降、日田の町は、金融の町から日田杉の積出港となります。
日田盆地の周囲の山々から切り出された木材や竹材は、三隈川で筏に組まれて筑後川を西に下りました。日田盆地の出口にあたる東側下流部には「筏場」という地名がその名残としてみられます。

大正5年に久留米−日田間の筑後軌道が全線開通します。それまで、筏に組んで素材のまま下流に流していたのが、鉄道輸送の出現により日田に製材所が立地することとなり、工芸学校や日田漆器会社なども開設されました。

JR久大線(ゆふ高原線)は昭和3年に建設が始まり、昭和9年には日田まで延伸されて、豆田町と隈町の間に駅舎が開設されます。これにより南北に1.5km離れた豆田町と隈町の間が市街化されて現在のような町の姿になりました。

 


 

地図で見る 100年前の日田


昭和46年の地形図と明治33年の地形図を交互に表示して見比べてみます。  ※10秒毎に画像が遷移します。

明治期の地形図をみると、日田盆地には豆田町と隈町の2つがあり、これが現在の日田の町の中心核になっていることが分かります。
昭和初期にJR日田駅が両町の間に開設されてから市街地が広がり、現在では両町がつながり一帯の市街地を形成しています。

明治期の地形図には、日田杉などを筏に組んだ「筏場」の地名が三隈川下流部(地図左端)にみられます。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

日田の立地条件と町の構造



筑後川は、阿蘇外輪山の北麓を水源として、九州北部を東から西に流れて有明海に注ぐ九州一の大河で、「坂東太郎」と呼ばれる利根川、「四国三郎」の吉野川とともに、日本三大暴れ川のひとつとされ「筑紫二郎」の別名で呼ばれています。

そんな筑後川の中流域に日田は位置しています。

筑後川は上流から中流にかけて名前を変える川としても知られています。
阿蘇付近の上流部では、田の原川から杖立川、大山川と名を変え、日田の上流で九重連山から流れてくる玖珠川と合流して三隈川となり、その5〜6km下流で花月川と合流し、夜明渓谷を過ぎて筑後国に入ると筑後川と呼ばれるようになります。

下流部においては、筑後川が筑紫平野に流れ出る場所にあたるのが久留米で、ここから福岡県と佐賀県の県境を形成して有明海に注ぎますが、筑紫平野の中でも右岸が佐賀平野、左岸が筑後平野と呼ばれ、いずれもクリーク網の発達した低平で軟弱な低湿地帯を形成しています。

九州北部の地図を眺めると、「日田街道」や「日田往還」と記された道路が目に付きます。
これは、佐賀、柳川、久留米などの筑紫平野方面を始め、福岡、小倉、中津、大分、竹田、熊本などから日田に向かう街道の総称で、江戸時代に付近の天領(幕府直轄地)を統括する西国筋郡代がおかれたために整備された街道です。
これらの街道は、現在の国道210号線、211号線、212号線、386号線などに受け継がれています。

日田は、筑後川水運のみならず陸運の要所にもあたり、九州北部の交通拠点に位置していたのです。



日田の位置する日田盆地は、英彦山など標高1000m級の山々に周囲を囲まれ、玖珠川、花月川をはじめ、大山川、高瀬川、串川などの多くの支流がこの盆地で合流しています。筑後川中流にあるものの、水量が豊かで河岸も広いことが特徴で、合流河川の多さと水面の広さから「水郷(すいきょう)」と呼ばれています。

日田盆地を流れる筑後川は「三隈川」とよばれ、「銭淵」と呼ばれる広い水面には、夏になると多くの屋形舟が漕ぎ出し鵜飼が行われることでも有名で、日田温泉の観光名物となっています。



三隈(みくま)とは、盆地にある日隈、月隈、星隈の3つの独立丘を指しています。
「隈」の字には丘という意味があるそうで、地理学的にいうと、三つの丘陵は三隈川の侵食によって形成された凝灰岩の残丘にあたります。

「日隈山」は日田温泉の先にある現在の亀山公園、「月隈山」は永山ともいわれ、近世には永山城があって、今では月隈公園として整備されており、一部は大分県立日田林工高等学校の敷地になっています。
「星隈山」は花月川と三隈川の合流点にあり、現在では星隈公園となっています。

これら3つの丘は日田盆地の要所にあり、戦国時代には月隈山に永山城、日隈山に日隈城が築かれていたことが知られていて、同じように星隈山にも城か砦があったのではないかと思います。


日田には、豆田町と隈町の2つの中心地があったことは既に述べましたが、月隈山の対岸に豆田町、日隈山の対岸には隈町と、いずれも川を挟んで丘と対峙する形で市街地が形成されているのが共通点で、両町の間にJR日田駅があります。
下の地形図には、明治期の地形図に現れた両町の範囲を赤色で示しました。




隈町の町並み


隈町は、戦国末期に町割りされた城下町を原型としていますが、昭和30年代から温泉町として発展し、鉄道駅にも比較的近いためか、近年に相当建て替えが進んだようで、豆田町と比べて古い町並みはあまり残されていません。

そんな中でも日隈山の対岸には三隈川河岸の町屋がみられます。

大きな玉石を積んだ石垣は天端高さが揃い、その上には様々な形の土蔵や宿屋がびっしりと軒を並べ、川岸に下りる階段が各戸についてきます。
建物はいくらか改造され、近年に建替えられたものもありますが、かつて舟運で賑わった名残を見せてくれます。


右側の小山が日隈山  日田温泉街の高層旅館が遠望できる


三隈川河岸の町屋  天端高さが揃った石垣には河岸に下りる階段がある


町の中心部には日田八坂神社があります。
江戸中期から始まったとされる祇園会の山鉾巡幸は盛大で、往時の日田の経済力を今に伝える文化遺産の一つに数えられ、祗園社の前には立派な山鉾会館があります。


左:日田八坂神社  中:社前にある山鉾会館  右:八坂社のある一帯は寺町


町中の建物は、妻入りの二階建て入母屋造りが多いようにみえますが、屋根の葺き替えやサッシの入れ替えが行われたものが多く、一階正面の改造や増築がされているにもかかわらず、外壁が白漆喰で綺麗に塗り替えられていたり、ちぐはぐな町並みになっているように見えます。


町中に残る古い家屋


町中に残る古い家屋


隈町のなかで最も重厚な町屋建築を残すのが山吉後藤家の店蔵です。

山吉(やまきち)の屋号をもつ後藤家は、日田杉を扱う材木問屋として三隈川河岸に店を構え、昭和28年に夜明ダムが建設されて筏流しができなくなるまで、周囲の山々から切り出された日田杉を、筑後川の流れを利用して河口付近の大川まで運んで財を成してきました。
関東の店蔵に比べると、観音扉や軒蛇腹などもない簡素な造りをしていますが、黒漆喰塗込めの大壁には他を圧倒する存在感があります。


山吉後藤家の店蔵



豆田町の町並み


豆田町は典型的な川港の町割りをしています。

南北方向の格子状に町割りが行われ、南北の通りは花月川河岸に直接抜けていて、船荷の搬出入が容易にできるよう、とても合理的にできています。


町屋町の対岸には、江戸時代には永山城と郡代屋敷(陣屋)がありました。

永山城の跡地には石垣と堀が残されています。
櫓門などの構築物は一切現存していませんが、再整備された石垣と堀は、かつての城郭の風情を感じさせてくれます。
永山城の南に広大な敷地の広げていた郡代屋敷の跡は、現在では住宅地になっていて、往時の遺構は全く残っていません。


永山城跡(月隈山)にある堀と石


左:突当りが城跡  中:月隈公園  右:石垣と堀


かつて大手門から一直線に南に下った場所に花月川を渡る御幸橋が架かっていますが、これを渡ると御幸通りに入り、日田豆田町の歴史の町並みが現れます。


花月川  右の御幸橋の向うに見える小山が月隈山


左中:御幸橋  右:御幸通り


町中には幾つもの小さな水路が流れています。
東から西へ下る緩やかな傾斜に合わせ、花月川の流れに平行して町屋の隙間を流れていますが、これは防火用水として花月川の水を町中に引き込まれたものです。

豆田町は、明和九年(1772)、明治13年、明治20年の計3回にわたり大火を経験しています。明和期の大火はほぼ全焼、明治期の2回の大火では町の半分程が焼けたといわれていて、それを教訓にして防火用水としての水路が発達したのです。


町中に流れる豊富な水量をもつ用水路


豆田町の町並みはとてもバラエティに富んでいます。

妻入り、平入りが交互に現れ、寄せ棟 切り妻、入母屋作りなどが入り混じり、統一感というものがほとんどありません。

店蔵や土蔵もありますが重厚な破風や棟などは見られませんし、京風の縦格子をもつ町屋もあれば、下目板張りやなまこ壁の外壁をもつものもあり、近代モダン建築や看板建築まであります。しかし、いずれも本格的なものではなく、最近建築された木造家屋の白漆喰塗りも多いようにも見え、古いものと新しいものの区別がつきません。

共通しているのは、ほとんどの建物が白漆喰で塗られていること、そして観光客相手の店舗となっていることぐらいでしょうか。
古い町並みとしては特筆すべきものが少ないようです。


御幸通りの町並み


上町通りの町並み





そんな中でも日田の町並みを代表する家屋を紹介します。

草野家住宅は江戸中期の建築で大屋根妻面のなまこ壁は豆田町の象徴です。
秀吉の九州征伐に破れて帰農したと伝えられる草野家は、製鑞業を営むとともに日田在住の掛屋の一つでした。内部には明和大火を免れた蔵が現存しています。


左:御幸通りにある当て曲げ  正面が草野家  右:豆田町の象徴 なまこ壁


左:草野家の対面にある町屋  右:草野家


廣瀬資料館は江戸末期の著名な儒学者・漢詩人・教育者である廣瀬淡窓(ひろせたんそう)の生家で、博多屋の屋号で掛屋を営む日田でも有力な商家でした。
切り妻平入りで塗り込め大壁作りの商家で、瓦を方形に貼った腰壁と二階の袖卯建が印象的です。


廣瀬資料館


薫長酒造は花月川沿いに建つ酒蔵商家で、元禄期に建築された蔵などが現存しています。寄せ棟大屋根の頂部にある煙り出しが特徴的な正面角の建物は、大正期に建築された和洋折衷建物で、全体的には洋風の造りなのですが、煙出しの屋根や卯建風の袖壁、桟瓦葺の庇などが和風で、なんとも奇妙な建物だといえます。


花月川沿いに建つ薫長酒造

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2009年2月


参考資料
@「地図で見る百年前の日本」小学館

使用地図
@1/50,000地形図 「吉井」「日田」 昭和46年修正
A1/50,000地形図 「吉井」「豆田」 明治33年測図


まちあるきの考古学 ホーム