まちあるきの考古学
中 津   <大分県中津市>


豊前国の中心 山国川河口にある城下町





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中津のまちあるき


中津は、豊前国の中心に位置し、耶馬溪から流れ出た山国川の河口に展開する低平な城下町です。
黒田勘兵衛(如水)によって開かれたといわれる町は、所々に歴史の痕跡を残し、こじんまりとした典型的な地方の城下町都市です。

最近、石垣や堀が次々と復元されて、城下町への再整備が進んでいるようです。




左:旧武家屋敷地の金谷辺  中:復元された中津城内堀  右:黒田如水建立の「赤壁寺」合元寺

 


 

地図で見る 100年前の中津


現在の地形図と約100年前(明治36年)の地形図を交互に表示して見比べてみます。

明治期の地形図をみると、明治期の市街地は河畔にある中津城をL字に囲むように整形に区画割りされていることがわかります。旧市街地の南東側は緩やかにカーブしていますが、これは屈曲して流れている蛎瀬川に沿っているためで、中津城下町は緩やかな曲線を描く河川に両側を挟まれ、グリッド状に町割りされていたのです。

明治30年に城下町南東の田地に中津駅が設けられました。これ以降、駅周辺に市街地の広がっているのが見て取れますが、これ以外に市街地はさほど大きくなっていないようです。


現在の地形図 100年前の地形図

 


 

中津の歴史


中津はかつて豊前国下毛郡に属していました。

中津平野を周防灘に流れ出る山国川を境に、北側(現 豊前市など)が上毛郡、南側(現 中津市)が下毛郡とされ、鎌倉時代から野仲氏が勢力を振るってきました。
野仲氏は、下野国の名族宇都宮氏の分流であり、豊前守護職に任じられた宇都宮信房の弟の重房が、野仲郷を所領として野仲氏を名乗ったことに始まります。

中津の近世の歴史は、天正十五年(1587)、九州平定を終えた秀吉から、豊前六郡(京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐)の十二万五千石と馬ヶ岳城(福岡県行橋市)を与えられた黒田勘兵衛孝高(如水)が、翌年に山国川河口部にあった中津江氏の居城である丸山城を補修して入城したことから始まります。

「黒田如水縄張り図」なるものが現存しているそうで、そこに描かれている城は現在のものと異なる方形ですが、城郭外には京町、博多町などの町名と侍屋敷や寺の記載もあり、城下町が形成されていたようです。

関が原の戦いの後に豊前一国と豊後国二郡の三十九万石を与えられた細川忠興は、当初中津城を居城としますが、翌年、居城を小倉に移します。
元和の一国一城令においても中津城の残地が許され、元和六年、忠興は三男忠利に家督を譲り自らは中津城に入ります。

寛永九年(1632)、細川氏の熊本転封によって、中津には譜代大名の小笠原長次が八万石で入封して中津藩が成立し、城下町の整備もほぼ完成したといいます。

この時代の城下町整備で特筆すべきことは、忠興の治世に建設が始まった「御水道」と呼ばれる上水道施設です。
中津城の約4km上流の相原に大井堰を築き、導水路を堀って山国川の水を城内に引き入れたもので、小笠原氏の時代には町屋町の一部にも導水路が拡張され、九州最初の水道設備といわれています。現在でも、下水道工事などで当時の石樋や溜枡などが発掘されることがあるそうです。

享保二年(1717)、譜代大名の奥平昌成が丹後宮津藩より十万石で中津に入封し、以後廃藩置県まで九代155年間にわたり中津を領することになります。

明治初期に城は取り壊されて公園となり、堀も大半が埋め立てられ、現在では広北東側の薬研掘が水をたたえるのみとなり、一部の土手(通称「お囲い山」)や門跡等の石垣が残るほかは、往時の建造物は一切姿をとどめていません。

明治30年、豊州鉄道(現 JR日豊本線)中津駅が旧城下町の南東端に開業し、小倉と結ばれます。
また、大正2年には中津を基点として耶馬渓鉄道が開設されます。下毛郡山国町(現 中津市)の守実温泉駅まで山国川に沿って延伸されたこの鉄道は、沿線に青の洞門、羅漢寺、守実温泉などの観光地を控えていましたが、利用客の減少などにより昭和50年に廃止になります。

現在、中津城跡にある天守閣は、昭和39年に旧藩主家奥平氏が中心となり市民らの寄付を合わせて建てられた模擬天守ですが、これを所有する中津勧業が、土地建物を中津市や民間企業に売却する方針を示し、今後の動向が注目されています。

平成16年、ダイハツ九州(移転時の社名はダイハツ車体)が群馬県前橋市から移転して、ダイハツグループの西の拠点として中津市昭和新田に本社、工場を構えたため、周防灘沿岸には自動車関連工場の集積が進んでいます。

 


 

中津の立地条件と町の構造


中津の旧城下町は、中津平野のほぼ中央、山国川の河口部に位置しています。

中津平野は、沖代平野(おきだいへいや)ともよばれ、北は行橋から南は宇佐まで、遠浅の周防灘を弓なりに囲むように広がり、かつての豊前国を形成していました。
平野中央部の中津市街地南側には、八世紀前半に成立したとされる県下最大の条里制遺構(沖代条里)が確認されていて、古代からの「豊州」の呼称の通り五穀豊穣の地だったようです。



沖代条里の上流部を東西に縦断する県道万田高田線は「勅使街道」をよばれ、古代に強大な権勢を誇った宇佐八幡宮に向かい、朝廷勅使が通った古代宮道に推定されています。街道沿いには、白鳳寺院の相原廃寺跡や下毛郡衙正倉に比定される長者屋敷遺跡などの古代遺跡が存在しています。

また、小倉方面への中津街道(現国道10号線)と大分方面への日向街道(現国道10号線)が通り、日田に通じる日田往還(現国道212号線)との分岐点にもあたり、中津は、豊前国の交通の要所で穀倉地帯の中心という立地条件を備えていたのです。



山国川は、英彦山(標高1,200m)付近を源流として、大分県と福岡県の県境を形成して流れ、下流域では沖代平野を形成して周防灘に流れ出る大河です。

上中流域には、標高500m前後の熔岩台地が広がり、屈折の多い渓谷と切立つ岩壁が模範的な侵蝕地形を見せていて、その代表的な景勝地が「耶馬渓」です。
また、八面山(はちめんざん・標高659m)や万年山(はねやま・標高1140m)は「卓状台地」の形状をした山として有名であり、その特徴ある山容は中津市街地から遠望することができます。


中津城天守閣から日田・耶馬渓方面を見ると八面山・万年山・木ノ子岳などの特徴ある山容を望むことができる



中津の町には、古い町並みや城下町時代からの堀や石垣はほとんど残されていませんが、町割りには城下町時代の名残が色濃く見られます。
現在の地図に城下町の町割りを重ねたのが下の図ですが、これを見ると中津は城下町として少し変わった町割りをしていたようです。

城下町は、緩やかに蛇行する山国川と中津川に沿って長細く展開していましたが、その中心に位置する内堀で囲まれた城郭は三角形をしており、城下町の街路構成は河道とは無関係なグリッド(直交式)で構成され、城下町によく見られる食い違いや当て曲げ等も見られません。

城下町の町割りは、周防灘に向かって緩やかに下る地形に即した、つまり条里制遺構に合わせた方形の直交街路構成をとっています。そして、城下町西側外周を緩やかに流れる山国川・中津川とともに、城下町の東端を構成する蛎瀬川(かきぜがわ)も大きく蛇行して、城下町の街路のグリッドパターンに変化を与えています。




城下町は、城内、武家屋敷地、町屋町、寺町が整然と区分されていたようですが、町屋町の占める面積が大きく、交通の要所にあった城下町らしく商工業の盛んだったことが想像されます。

しかし、「中津」という如何にも港町を連想させる地名と、古代からの勅使街道沿いではなく瀬戸内に面した河口に新たに平城として築城されたことからみて、河港としての機能が充実した町の構造を想像していたのですが、現実の町割りは全くそうなっていません。

この意味でも中津城下町は変わった町割りをもっていると思います。


中津城天守閣から望む中津川河口


山国橋からみる山国川河口部と天守閣



中津城下町は、大きく蛇行する山国川、中津川、蛎瀬川を天然の外堀として、その内側に、城下町の街路形態に合わせた直線的な二重の堀が配置され、その外側の堀に沿って「お囲い山」と呼ばれた土塁が築かれいました。

また、城下町には外部との出入口として、広津口 、小倉口、金谷口、島田口、蛎瀬口、大塚口の六口が設けられ、各口には番所があり城下への出入りを監視させていたといい、お囲い山と番所の名残が自性寺近くの旧広津口に見られます。


左:日豊本線沿いの旧金谷口に残る土塁  右:かつての外堀の名残とみられる水路


旧広津口に現存する土塁  古びた石垣も往時のままかも知れない



中津城は、山国川河口に築城された梯郭式の平城であり、今治城、高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられています。
堀には海水が引き込まれていたようで、現存する薬研掘の水嵩は潮の干満で上下しています。

江戸時代の絵図に天守は見られず、天守閣は存在しなかったといわれています。

現在、本丸北東角の薬研堀端には五層五階の天守と二重櫓がありますが、これは昭和39年に旧藩主家奥平氏が中心となり、市民らの寄付を合わせて観光開発を目的として、萩城天守を模してRC造で建てられた「模擬天守」の一つです。


左:薬研掘からみる再建擬似天守  右:奥平神社の脇からみる天守


現在、中津城地には奥平成昌を祀る奥平神社、宇都宮鎮房を祀る城井神社、その従臣を祀る扇城神社、伊勢神宮の分霊を祀る中津大神宮、そして祇園社である中津神社の5社が鎮座しています。

中津神社を中心に毎年7月に行われる中津祇園祭りは、570年以上の伝統をもつといわれ、中津神社の「上祇園」と闇無浜(くらなしはま)神社(中津市角木・中津城の北1km)の「下祇園」から成り立ち、旧市街地を中心に12台の祇園車が練り歩くことで有名です。


左:中津神社鳥居  右:中津神社越にみる再建天守


現在、中津城跡では内堀と石垣の復元工事が進められています。

昭和60年代から本格的に始まった中津城と殿町の発掘調査の結果を受けて、平成10年頃からは国庫補助事業としての復元工事が順次行われて、往時の中津藩十万石の居城の姿が再現されつつあります。


城郭の石垣(復元?) 左のRC水路は堀の名残だと思う


石垣は再整備、堀は復元されたもののようです。


復元と現存の区別がつきませんが、城郭再整備が進んでいるようです。



中津城下町には14の町屋町がありましたが、現在でも往時の面影を最も残しているのが諸町です。
町の西側1/3程度は武家屋敷地でしたが、東側の町屋町は諸々の職人の居住地だったため諸町の町名がついたといいます。
平成17年にカラー舗装と石張り側溝で道路が再整備されました。
沿道には平入り切妻の家屋が多く見られ、中にはきれいに復元された町屋も数軒あり、今でも町屋町の面影が色濃く残しています。


諸町の町並み


諸町の町並み


武家屋敷地の匂いを残しているのが金谷辺です。

諸町から南に下り、金谷口を抜けると下級武家の屋敷町「金谷辺」がありました。かつての外堀は埋立てられ日豊本線の高架が通っていますが、その脇にはお囲い山が現存し金谷口の名残を見せてくれます。

日豊線の高架線路の南側一帯、金谷辺地区は閑静な住宅地となっていて、コンクリートブロックなどの塀越には松などの庭木が見られ、所々には土塀が復元されていて、武家屋敷地の名残を見ることができます。


金谷辺の町並み  屋敷門、塀、庭木などが旧武家地の雰囲気を伝えます


きれいに再建された石積み・土塀と瓦屋根が続く金谷辺の町並み


中津の町中で、復元整備が進み最も城下町時代の風情を伝えてくれるのが寺町です。

無電柱になった石畳の街路に野面石積みと白壁が連なり、合元寺、浄安寺、西蓮寺など12に及ぶ寺社が連ねています。
寺町のなかで最も著名な寺院が、黒田孝高が建立した赤壁寺と通称される合元寺(ごうがんじ)です。

戦国末期、孝高の奸計により宇都宮鎮房が討たれた時、合元寺に籠っていた家臣達も全員討ち死にしたといい、その時の返り血が壁に飛び散り、幾度塗りかえても壁面に浮き出てくるため、ついには壁を赤く塗ったのだと伝わっています。


石積み・土塀・瓦屋根が連なる寺町の町並み


赤壁により一際目を引く合元寺



江戸期の絵図によると、城下町の東南には外堀を兼ねた蛎瀬川と内側にお囲い山がありました。
今そこには、コンクリートで固められた小さな水路が残るのみで、往時の外堀と土塁の名残はまったく感じられません。しかし、姿形は変わったとしても、水の流れていた場所には今でも水は流れていて、400年前に造られた町の構造は今でもしっかりと受け継がれているのです。


市街地の中に残る蛎瀬川はRCで固められて、「お囲い山」は見当たらない。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2009年3月


参考資料
@「中津市文化財調査報告 第21集 中津城下町遺跡 京町御用屋敷跡」中津市教育委員会

使用地図
@1/25,000地形図「中津」平成19年修正
A1/50,000地形図「中津」明治36年修測

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